日清戦争後、清朝政府は日本へ派遣する留学生の受け入れを、日本政府に依頼しました。その後年々、日本留学のニーズが拡大し、1902年、清国の留学生のために予備教育機関「弘文学院」(翌年、宏文学院に改名)が、嘉納治五郎によって設置されました。松本亀次郎は、ここで日本語指導にあたり、魯迅はその教え子の一人です。

魯迅

魯迅(本名:周樹人)は、1881年浙江省紹興に生まれました。代々学者の家筋で、祖父は翰林学士(かんりんがくし)で北京に住み、父親も相当の学問を修めた人でしたが、その後、祖父の投獄、父の病死と続き、家は貧困状態となります。魯迅は、17歳の年に南京の江南水師学堂に給費生として入り、翌年江南陸師学堂付属の鉱路学堂に移って1902年に卒業します。当時の清朝政府は、日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めており、魯迅は20歳の若さで、官費留学生として日本へ派遣されました。

来日後、魯迅は先ず、東京の弘文学院予科に入学し、この学校で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けました。日本留学の1年目、魯迅は日本語や普通課程の勉強に全力を尽くしていたといいます。当時の同級生は、「当時、魯迅の弘文学院での勉強量はかなりすごいもので、普段毎日深夜まで一生懸命勉強し、驚かされる程の意志力だった」と魯迅の生活ぶりを語っています。

松本亀次郎

1903年に弘文学院に招かれた松本亀次郎は、最初に担当したクラスで、のちに「中国近代文学の父」と称される魯迅こと周樹人と出会い、ここで日本語の指導にあたりました。松本亀次郎の回想によると、魯迅の日本語翻訳は最も穏当かつ流暢だったため、「魯訳」と言って訳文の模範としていたほど優秀でした。来日後2年目から、魯迅の活動は学校での勉学の範囲を超え、様々な面にまで及び始めました。「欧米や日本の書籍を渉猟し、日本語を学びながら翻訳をしていた」と同級生は語っています。

その後、魯迅は仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入り、1909年の8月まで日本に滞在し、日本での留学は7年余りとなりました。仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野先生との師弟交流は、小説「藤野先生」で伺い知ることができます。

魯迅は日本滞在中に、中国人への精神啓蒙・思想啓蒙・科学啓蒙の活動に力を入れ始め、祖国の危機、中国人の精神を救うために自らの力を捧げる信念を固めていきました。文学の道に進むことを決心した魯迅は、仙台医学専門学校を退学しましたが、この留学は、さまざまな意味で魯迅の出発点となり、彼の思想と文学の骨格は、この時期に作り上げられました。

2021年頃から、NFT(非代替性トークン)が世界的に注目を集めています。NFTとは、コピー防止措置やナンバリングにより「代替できないことが証明されたデジタルデータ」のことで、中国でもNFT市場拡大の流れが起きていました。しかし、2021年9月、中国政府は仮想通貨の決済や取引情報の提供等、仮想通貨に関連するサービスを全面的に禁止すると発表しましたため、中国では規制と共存しつつ、他の国とは違う独自のNFT市場が形成されています。

現地の報道によると、中国国内におけるNFTマーケットプレイス(NFT取引所)は、2022年2月の時点では100あまりでしたが、6月にはその数が500を突破し、たった4か月で5倍にまで増加しました。これは、アリババやテンセント等中国の巨大テック企業が本格的な参入をしてきたのが要因です。しかし、NFTへの関心が高まる一方で、中国では仮想通貨が禁止されているため、海外で一般的に言われる「NFTアート」に対して、中国の「数字収蔵(デジタルコレクション)」と呼ばれる商品は、似て非なるものだといえます。

数字収蔵(デジタルコレクション)とは、仮想空間上の音楽や絵画、動画、アート玩具、フィギュア等のコンテンツを指します。中国で販売されているデジタルコレクティブル(数字収蔵品)を見ると、政府が文化のデジタル化戦略を打ち出している影響もあり、博物館の収蔵品や京劇等中国の伝統文化にまつわる品々が、全体の約7割を占めています。

NFT取引における海外と中国との違いは、4つあります。1つ目は、決済通貨が人民元のみとなっていることです。NFT取引する際の決済では、ビットコインやイーサリアムといった仮想通貨を用いるのが一般的ですが、中国政府はブロックチェーン資産に対して厳しい統制を加えており、仮想通貨を禁止しています。そのため、NFTを取り扱う中国のテック大手企業の多くは、当局の規制に配慮して「NFT」ではなく「デジタルコレクティブル(数字収蔵品)」という言葉を使用し、慎重なアプローチをとっています。

2つ目は2次売買ができないことです。一般的なNFTのように世界に開放されたブロックチェーンではなく、中国政府の管理下にある外部から遮断されたブロックチェーンを利用しているため、転売による収益化は期待できません。

3つ目は、取引所に管理者が存在することです。NFT取引所を始めとするブロックチェーン関連組織の意思決定は、特定の誰かによってではなく、組織全体で行うものだという考え方が一般的ですが、中国のNFT市場では、管理者がそのブロックチェーンの廃止を決定した場合、一瞬にしてそのデジタル資産にアクセスできなくなるというリスクがあります。

4つ目は、中国のNFTマーケットプレイスでは、全ての参加者に実名での身分登録を義務付けていることです。一般的なNFT市場は、誰でも匿名で参加できるのに対して、利用の認証が必須とされていることにより、マネーロンダリングや詐欺といった犯罪防止に役立つとされています。

中国のNFT市場は規制と共存しつつ、他国とは異なる独自の成長を遂げていますが、一方で、ネットサービス大手のテンセントが、販売不振により、リリースから1年も経たないうちに、NFTを応用したデジタルアートの取引アプリ「幻核」の事業見直しに着手しています。現在、中国当局は、NFTについての規制や法整備は発表していませんが、今後、国内NFT市場が過熱し、二次流通等の違法行為が増えていくと、規制を本格的に強化する可能性もあり、市場の動向は政府の判断次第で変わっていくと考えられます。

(財新Biz&Tech等を参考に整理)

黄酒は米・麦・とうもろこしなどの穀物を原料に、麹の力で糖化・発酵させて造られる醸造酒で、ビール、ワインと並ぶ世界最大の古酒です。酒色は、濃黄色や赤味をおびた黄色のものが多いことから「黄酒」と呼ばれ、黄酒の中でも長期熟成させたものを「老酒」とも呼びます。黄酒はそれぞれの地方独特の伝統的な方法によって醸造され、種類が非常に多く、一つ一つに独特の個性があります。その中で紹興酒は黄酒を代表する最高峰のお酒で、紹興黄酒、紹興老酒とも呼ばれています。紹興酒の醸造技術は2006年に無形文化遺産に認定されました。

黄酒

「黄酒の銘品・紹興酒」

アルコール度数1520度の紹興酒は黄酒の中でも銘酒と評価されています。主原料は糯米と麦麹、辣蓼草(からだて)、陳皮、肉桂、甘草などで作られた薬酒を用いています。紹興酒は『紹興市の名水と称される鑑湖の清水で仕込み、製造後3年以上の貯蔵熟成期間を経て製造したもの』という厳密な定義があります。また、現在では中国政府によって、紹興市以外の土地で作られたものは、「紹興酒」を名乗ってはいけないことになっています。漢方薬の薬引(塗り薬)としても使用されています。

一般に、紹興酒は鶏肉や鴨料理と相性がいいといわれていますが、熟成年数の違いで、合う料理が異なります。紹興酒はワインと同じように甘口から辛口の4種類に分かれています。糖分含有量によって香雪(甘口)、善醸(中甘)、加飯(中辛)、元紅(辛口)があり、市販されている紹興酒のほとんどは、加飯に分類される中辛が主です。

紹興の継承文化にかつて、娘が生まれたのを機に新酒の紹興酒の甕を地中に埋めて、娘が嫁ぐ日にそれを掘り起こして振舞われ、また絵付け(花彫)して嫁入り道具にしたという伝統があったため、紹興酒は「花彫酒」という別称で呼ばれることもあります。今日では、この花彫酒が長期熟成種の愛称としても使われ、この熟成の長さに応じた味わいの変化が紹興酒の魅力でもあります。

花彫酒

「独特の味わいをもつ嘉善黄酒」

嘉興市の嘉善県にも、特色ある銘酒「嘉善黄酒」や「西塘黄酒」があります。嘉善の醸造業は、明清時代には、すでに非常に発達しており、西塘には、歴史上多くの黄酒工房がありました。もち米と熟成した黄酒を原料とし、伝統的な製法と技術で冬に醸造されています。「嘉善黄酒」の酒色は黄色、透明で光沢があり、香りが豊かで甘く、まろやかで柔らかい半甘口の黄酒で、18種類のアミノ酸を含み、栄養価も豊富です。「西塘黄酒」も、まろやかで芳醇、独特の味わいがあります。

中国では、歴史上「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。

楊貴妃(719〜756)は、唐代の玄宗皇帝の妃で、蜀の国(現在の四川省)の地方役人をしていた楊家に生まれ、もともとの名は玉環といいます。十代で親を亡くし、叔父に引き取られて育ちます。735年(開元23)、玄宗の息子の妃として迎えられましたが、玄宗は楊玉環の容姿に一目惚れし、夫の母武恵妃の死後、玄宗の求めで女冠となり太真の号を授かり、4年後正式に後宮に入り、翌年『貴妃』となりました。『貴妃』とは、中国の後宮の中での地位で、トップである皇后の次に位の高い地位です。

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日本で広く知られる、白居易の長編漢詩『長恨歌』は、悲劇の美女をうたったものです。長恨歌に登場する漢の皇帝は玄宗皇帝、皇帝から寵愛を受けた楊家の娘は、楊貴妃がモデルとなっています。

長恨歌にある『温泉水滑洗凝脂 雲鬢花顔 花貌 芙蓉如面柳如眉』(温泉の水がなめらかに凝脂を洗う/ふんわりとした髪の生え際/芙蓉の花のような顔立ち/柳のようなほっそりとした眉)と、楊貴妃の美しさをうたっています。また、登場する楊家の娘が漢の皇帝から賜ったという『華清池の温泉』は実在し、西安の観光スポットとなっています。

楊貴妃が庭を散歩すると、あたりの花々が彼女の美貌と芳香に気圧され、しぼんでしまったという伝承が「羞花美人」(花も恥じらう美女)といわれる由来となっています。

美しさだけでなく、才知があり琵琶や笛、磬 (けい)などの楽器や踊りにも長けていたことでも知られています。玄宗の寵愛を一身に受け、一族はみな高官に上り、又従兄弟の楊国忠は、宰相として権力をふるっていました。しかし、権勢をほしいままにしていたので恨みを受け、安禄山が乱を起こすと、玄宗と楊貴妃は共に蜀に逃れようとしましたが、途中で軍隊の反抗にあい、兵士の殺害要求により、玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じました。

楊貴妃は、その艶麗さ、玄宗との交情、栄枯の激しさなど、同時代からすでに文学作品の題材となることが多く、白居易の『長恨歌』、陳鴻の『長恨歌伝』をはじめとして、詩歌、戯曲、小説、随筆に数えきれないほどの作品が書かれています。

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。貂蝉は、中国の四大美女の中では、おそらく唯一架空の女性です。『三国志演義』(3世紀・三国時代、約100年の乱世に活躍した英雄を語る小説)に登場する貂蝉は、聡明、美貌、技芸に優れた女性です。憂国の思いで月を眺めているとき、そのあまりの美貌に、月さえも雲に隠れてしまった逸話から、別名「閉月美人」とも呼ばれています。

『美女連環の計』(三国志演義より)

『三国志演義』では、後漢(25年〜220年)の献帝の大臣・王允が、美女(王允の養女・貂蝉、年齢は数え年で16歳)を使って陥れる「美人計」と、仲を裂く「反間の計」の二つを使った策略「美女連環の計」を企て、董卓の殺害に成功します。これは、時代が動く見せ場の一つとなっています。


物語:貂蝉は王允の企てを承諾し、王允は貂蝉を娘として呂布に引き合わせます。呂布は彼女の美しさに心奪われ、側室として彼女をもらい受ける約束をします。さらに王允は、貂蝉を董卓にも会わせ、彼もまた彼女の美貌に心奪われます。貂蝉は迫真の演技を繰り広げ、呂布の董卓への憎悪をかき立てていきます。やがて呂布は王允に打倒董卓をそそのかされてその気になり、登城の途中で董卓を倒します。その後、呂布は貂蝉を側室として迎え入れましたが、徐州下城で敗れ、処刑されました。貂蝉をめぐる記述はここで終わっています。民間伝承や創作物では、曹操に引き取られたとか、関羽と恋仲になるも自害したなど、色々な説があります。


日本にも中国にも多くの貂蝉ファン

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『三国志演義』に貂蝉が登場するのは、この場面だけですが、貂蝉は秘密が漏れれば命を奪われる可能性があったにもかかわらず、最後まで王允との約束を守り、自分の感情に流されず使命を全うする「智」と「勇」の人で、美人であるだけでなく、儒教的道徳観からみても優れた人物として描かれています。


『三国志演義』は、中国人からとても愛され、広く読まれている物語です。貂蝉が四大美女に選ばれたのは、ほとんど男ばかり登場するこの物語の中で、たいへん美しく、しかも男顔負けの度胸を持っていたことが、中国の民衆の心をとらえたからといった見方があります。
貂蝉の最期は、作品によって、さまざまに解釈されていますが、吉川英治の小説『三国志』では、「忠」・「孝」・「貞」の価値観を再現するために、「連環計を果たした貂蝉は自害した」と表現していると言われ、日本にも多くの貂蝉ファンがいます。

今回は、大学卒業後、寧波で生活するシングルの若い世代について、その生活スタイルや価値観を紹介します。

寧波大学をはじめ寧波にある総合大学には、全国から学生が集まってきます。彼らは大学卒業後、故郷や上海などの大都市で就職するのが一般的です。ところが最近は、そのまま寧波にとどまる人が増えています。寧波以外の出身で、大学進学をきっかけに故郷を離れて寧波に移り住み、寧波に就職して生活する人々。彼らは「新寧波人」と呼ばれています。なぜ寧波で暮らすのか。それは、住み心地がよい、就職のチャンスが多い、上海より家賃が安い、生活のストレスが小さい、街がきれいで清潔、安全で文化的など、さまざまな理由があるようです。でも実は、寧波には新しく来た人を受け入れる土壌があるのではないか、というのが「元祖寧波人」の考えです。寧波は、かつて「寧波幇」と呼ばれた商人集団が、発展の基礎を築きました。隋唐の時代から「通商口岸」であった寧波は、海外との接触が多く、海外の生活様式や考え方を受け入れてきました。そういう開放的な寧波人の気質が、若い世代に支持されているのだと思います。

さて、若い世代の一番の関心事は何かというと、それは結婚です。結婚は、唯一の選択肢ではありませんが、シングルでいる人はそれほど多くありません。大部分の若者は、30歳くらいまでには結婚したいと考えています。農村出身の場合は、春節で帰省した時、親や親戚が一斉に「結婚、結婚」とプレッシャーをかけるため、時期は早まります。いざ結婚となると、かつての日本のように、結婚式と披露宴は盛大です。高級ホテルや美しい庭園のある施設、屋外などで、親戚、友人、職場など200人以上の人々を招待して披露宴を行います。中には、隋唐時代の民族衣装である「漢服」で結婚式を挙げる人もいます。若い世代には、伝統文化を復活させたいという動きがあり、「漢服」はその象徴的な存在です。

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漢服で結婚式(新婦は寧波大学の卒業生)】

若い世代のブームは、猫を飼うことです。男女を問わず、シングルでも既婚でも、若者、特に20代は猫が大好きです。寧波には猫カフェが数多くあり、若い女性で満席です。猫カフェに通うだけでは飽き足らず、ネットショップで猫を買い求めて猫と暮らしている人もいます。寧波市内には、ペットショップだけでなく、動物病院もあるので安心して猫と暮らすことができるのです。都市生活を楽しむ「新寧波人」の活力が、寧波の原動力になっているのは間違いないでしょう。

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【猫とともに暮らす(寧波大学の卒業生)】

寄稿:寧波大学外国語学院外籍教師、静岡県立大学グローバル地域センター客員講師

   (静岡県日中友好協議会 交流推進員)横井 香織

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。王昭君は、紀元前1世紀ごろ、前漢の元帝時代の宮女です。外交上の犠牲として、異国に嫁いだ悲劇的な美女というキャラクター性は大変人気が高く、様々な物語が創作されています。

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王昭君は、今の湖北省興山県の庶民の家に生まれ、その美しさから、14歳の時に、民間から召し抱えられ、宮女として漢の後宮に入りました。当時の皇帝は、後宮の女性が描かれた肖像画を見て、寵愛の相手を選んでいたため、後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家の毛延寿に賄賂を贈り、自分を必要以上に美しく描いてもらっていました。しかし、王昭君は宮廷絵師に賄賂を渡さなかったため、故意に醜く描かれてしまいます。そのため、皇帝が後宮の女性の肖像画を見て召し出す時も選ばれませんでした。

モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」の君主・呼韓邪単于(こかんやぜんう)から、漢の朝廷に政略結婚を持ち掛けられ、漢がこの異民族の懐柔策として後宮の女性を嫁がせることになった時、元帝はこの肖像画を見て、醜く描かれていた王昭君を選び、嫁がせることを約束します。ところが、実際に会ってみると、絶世の美女だったため、元帝は後悔するのですが、すでに呼韓邪と約束してしまったため、仕方なく妻として与えることになりました。

王昭君が祖国に別れを告げ匈奴へ旅立つ時、琵琶をかき鳴らし、離別を悲しむ曲を奏でると、雁がその哀切な音色を聞き、馬上の王昭君のあまりの美しさに目を奪われて、翼を動かすことも忘れ、地上に落ちてきたという逸話があります。その逸話から、王昭君は別名「落雁美人」と呼ばれています。

匈奴に嫁いだ王昭君は、その後、一男をもうけましたが、呼韓邪単于が早くに死亡したため、当時の匈奴の慣習に従って、義理の息子である復株累若単于の妻になり、二女をもうけたと言われています。しかし、漢では夫の息子と結婚することは、近親相姦に相当する不道徳で汚らわしいものだと思われていたため、王昭君にとっては屈辱的なことでした。俗説では、夫の息子との結婚を虚偽するために、服毒自殺したと言われています。そのため、王昭君の物語は漢王朝と異民族との間で翻弄された薄幸の美女として描かれることが多いようです。王昭君の薄幸ともいえる生涯は、後世に長く語り継がれ、日本にも伝来して『今昔物語集』に「漢前帝后王昭君行胡国語」として取り上げられています。

今回は、寧波の学生たちの生活スタイルや価値観を紹介します。

中国では、毎年6月になると「高考」(全国統一大学入試)が行われます。日本でいう大学入学共通テストで、この試験の成績が若い人々の未来を大きく左右します。試験は1000点満点で、自己採点をして受験する大学を決めます。多くの学生は、全国の4年制大学約1300校の中で、国家重点大学(約110校)に入学したいと考えています。重点大学に入学できれば、公務員や国営企業などに就職できる可能性が高いからです。重点大学に入り、よい就職先を見つけて、高い収入や安定した生活を手に入れたい。こうした考えは学生のというより、親の願いです。

大学に入学すると同時に、寮生活が始まります。高校も寮生活なので、ルームメイトのいる共同生活には慣れています。寧波大学の学生寮は4人部屋で、部屋にはトイレ、洗面台、シャワー室があります。厨房はありません。食事は学生食堂や宅配、外食になります。授業は朝8時から夜8時25分まで行われ、さらに10時まで自習できるように教室が開放されています。日本の大学生に比べて授業数が多く、予習復習やテスト準備に追われて、ほとんどの学生がアルバイトやサークル活動をしていません。それでも高校までの勉強漬けの生活よりずっと楽しいと、学生たちは言っています。

学生たちにとって、大学は受験勉強の重圧から解放され、自分と向き合う場です。小・中・高では、勉強だけできれば良かったので、家事をしたことがなく、自分の将来を考えたこともなかった、そういう学生にたくさん出会いました。しかし、大学ではそういうわけにはいきません。成績に関係なく、多くの学生が目標のないことや未来を描けないことに悩んでいます。経済の急速な発展は競争を激化させ、格差が拡大しました。実力があっても、希望する職業や会社を見つけることが難しくなっています。学生が、将来に不安を感じるのも仕方ないかもしれません。

それでも、幼くて頼りなく見えた大学1年生が、4年生になると就職先や進学先を決めて巣立っていく姿を見てきました。4年間の大学生活は、学生が自分と対話し、生き方を考えるよい機会だったのだと思います。今年の6月、中国の大学新卒者が初めて1000万人を超えます。若い人々の未来が明るいことを願っています。

【寧波大学正門】

【寧波大学学生寮】

寧波大学外国語学院外籍教師  

静岡県立大学グローバル地域センター客員講師

(静岡県日中友好協議会 交流推進員)

横 井 香 織

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。西施(生没年不詳)は、春秋時代の末期(紀元前5世紀)、越の国、現在の浙江省紹興市の諸曁の村で生まれました。本名は施夷光だといわれ、この村に「施」という苗字の家が村の東側と西側に2軒あったことから、西側の施であった彼女は、西施と呼ばれるようになりました。また、彼女は「沈魚美人」とも呼ばれ、彼女が「浣紗(川で洗濯をする)」をしていた時、そのあまりの美しさに、まわりの魚たちが泳ぐのを忘れて沈んでいったことに由来しています。

呉王・夫差が見とれた西施

春秋時代、隣り合わせた呉と越は、たびたび戦いを繰り返していました。越王の勾践(こうせん)が呉の先手を打って攻撃しますが逆に敗北し、勾践が呉王・夫差(ふさ)の奴隷となることで和睦しました。勾践は国に戻ると、かつての苦しみを思い出し復讐を誓います。勾践の部下に范蠡(はんれい)という優秀な武将がいました。越は呉を打ち破るために呉王・夫差に美女を献上して戦意を失わせようとする策略を立て、范蠡は美女をさがして国中を歩き、そこで西施を見出します。その後、西施は呉王・夫差の元に送られ、夫差は狙い通り、西施の美しさの虜となって政治や国防をおろそかにし、その結果、呉はついに滅亡に至ります。 

呉の滅亡後の西施は、一説では呉王が亡くなる前に、西施を皮衣に包んで長江に沈められてしまったという話や、もともと魅かれ合っていた范蠡とともに越から逃げ出し、その後二人で幸せに暮らしたという話など、様々な伝説が残っています。昆劇の代表作、明代の戯曲『浣紗記』では、ハッピーエンドの最期が描かれています。この物語では、越の将軍・范蠡と西施が、出会って互いに一目ぼれしますが、その後、西施は、貢物として呉王の元に送られ、呉は滅亡しますが、その後范蠡と西施の二人は再会し、太湖に舟を浮かべて愛を語り合うという内容です。

情人眼里出西施

李白の詩「西施越溪女、出自苧蘿山」の中の「苧蘿(ちょら)山」は、諸曁市南部の浣紗江の畔にあります。その苧蘿山の麓の巨石に、書聖・王羲之が「浣紗」の字を刻んでいることから、西施が洗濯をした場所として伝わっています。

西施に関連する言葉は、今も複数残っています。例えば、中国には「東施効顰」(東施ひそみにならう)という故事成語があり、これを日本語では「西施のひそみにならう」と訳し、人まねをして物笑いの種になる・人のやり方を踏襲することをへりくだっていう…などの意味で使われています。西施が出てくる故事成語に、「情人眼里出西施」(恋人の目には相手の姿が西施のように美しく見える)というのがあります。中国では、この故事成語は今もよく使われています。

今日の寧波市は、古く唐代から「明州」と呼ばれ、東アジア海域の交流で、重要な役割を果たしてきました。「明州」の名は、明代に「海定則波寧」(海が静かであれば波は立たない)という意味の「寧波」と改められました。寧波は改革開放以後、徐々に近代化が進み、21世紀には中国を代表する港湾都市に生まれ変わりました。歴史ある寧波の建築物から、現在の寧波の姿や人々の生活を見ていこうと思います。 

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寧波のシンボルといえば、まず三江口をあげることができます。三江口は唐代からの港で、甬江支流の余姚江と奉化江が合流して甬江になる地点です。日本からの遣唐使船は三江口に上陸し、その後の栄西や道元、雪舟などもここにやってきました。三江口の西側に、城壁で囲まれた寧波府城がありました。城壁の東側面と川にはさまれた江厦には、埠頭だけでなく、金融や卸売りなど商人の町があり、にぎやかな地域でした。また城内には、儒教と風水の思想にもとづいた都市が形成されました。現在も残る城隍廟や天封塔、月湖などに、伝統都市の趣を感じることができます。 

現在、城壁は広い幹線道路となり、かつての城内は寧波で最も活気にあふれた繁華街になっています。中でも天一広場は、レストランやショッピング、ビジネスなどが一体となった大型商業広場です。噴水や公園が整備され、週末には野外ステージでイベントが開催される広々とした空間で、子ども連れの家族や若い人々でいつもにぎわっています。まさに寧波人の日常が感じられるスポットです。私もコロナ以前は、週に一度は天一広場に出かけて買い物をし、友人と食材豊富な寧波料理に舌鼓を打っていました。 

寧波人の同僚が、三江口と聞くと、子どものころ三江口から船に乗り、奉化江沿いの県の家まで帰ったことを思い出す、と話してくれました。また、天一広場が現在のように整備されたのは2000年に入ってからのことで、それまでの三江口のシンボルは第二百貨店(現在もあります)だったと、当時を懐かしんでいました。多くの人やモノが行き交ってきた三江口は、現在の寧波の発展をどう見ているのでしょうか。 

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【三江口(秦化江、余姚江、甬江の合流地点)】

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浙江のお酒といえば、紹興酒を思い浮かべますが、中国を代表する蒸留酒である白酒も、浙江省で作られています。「同山焼」、「三白酒」、「紹興槽焼白酒」、「雁蕩山酒」、「金山陵酒」などの白酒があります。白酒は、紹興酒と違い、アルコール度数が高く、からみが強いのが特徴であり、ウイスキー、ブランデーと並ぶ世界三大蒸留酒の一つであり、種類も味も豊富です。

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「同山焼」

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浙江省諸曁市同山鎮は、白酒の産地として知られています。浙江省の白酒生産量は年間1万トンですが、そのうち同山焼企業で、年間4千トン以上の白酒が生産されています。ここで作られる「同山焼」は、清香型白酒の一つで、地元の特産品である高脚拐糯高粱を主要な醸造原料とし、醸造水は、地元の有名な水源が使われています。芳醇・濃厚で後味が良く、現地では「江南小茅台」と呼ばれています。伝統的な固体発酵の老五甑法を採用している同山焼醸造技術は、2500年以上の歴史があり、2009年には、浙江省の無形文化遺産に登録されました。同山焼は白酒ですが、醸造されたお酒は赤く透き通っているのが特徴です。お酒が赤いのは、蒸留が終わってから高粱の葉を入れていくからです。食感は甘く、五六十度で、同山酒は「酒中君子」とも呼ばれています。

「三百酒」

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嘉興市桐郷市烏鎮にも有名な白酒があります。700年以上もの歴史がある、特産の「三白酒」は、地元でしか飲めない銘酒として知られており、民間では「杜搭酒」とも呼ばれています。烏鎮の伝統的な三白酒醸造工房「高公生糟坊」は、清同治11年(1872年)に創始され、伝統技術を採用して醸造しています。「三白」とは白米、白麺、白水を指し、一定の割合、工程を経て作られます。完成品はアルコール度数55度と高く、純粋でコクがあり、甘い香りで口当たりがよく、辛くて癖になります。

 中国人留学生の日本語教育に生涯を捧げ、日中友好に貢献した、掛川市(旧大東町)出身の教育者、松本亀次郎(1866年〜1945年)がいます。松本亀次郎は、中国人留学生が増え始めた頃、1914年に「日華同人共立・東亜高等予備学校」を創立し、中国人来日留学生は5万人になり、そのうち2万人はここで学んでいます。その学生達の中には、魯迅、周恩来、郭沫若、秋瑾らがおり、新中国成立の黎明期から日中国交正常化にかけて、その時代を駆け抜けていきました。 

 19歳の周恩来は、官費留学生の待遇が受けられることを目指して、1917年10月に私費で日本留学し、東亜高等予備学校の本科に入学しています。周恩来はここで日本語を学びながら、大学入学試験の準備を始めました。この学校の跡地(現在:東京都千代田区立神保町愛全公園)には、「周恩来ここに学ぶ」の碑が建てられています。

【東亜高等予備学校跡地】 

周恩来が残した日記によると、松本亀次郎から個人授業も受け、自宅へ頻繁に招くほど親密な関係だったとされています。しかし、当時、日本語があまり上達せず、大学受験も不合格となり、失意のうちに1919年に帰国しています。日本での大学進学の目標は達成できませんでしたが、多感な青年期に国際政治や社会運動への理解を深めていく中で、次第に自身の政治信条を形成していきました。日本留学は人生の大きな岐路であり、日本社会に興味を持つ大変重要な時期だったといえます。 

新中国設立と共に総理となった周恩来は、作家の井上靖と会った際に「日本は中国を侵略し、われわれに塗炭の苦しみを与えた。しかし、日本には松本亀次郎のような人もいた。桜のころに日本を後にしたが、その頃また日本へ行ってみたい。松本先生のお墓参りもしたい」と語ったといいます。その願いはかなわず、1976年に他界しましたが、1979年に、周恩来夫人・鄧穎超が来日し、周恩来の遺言に従って、松本亀次郎の遺族に謝意が伝えられました。                                              

その後、時は流れ、2019年、天津市の周恩来鄧穎超記念館より、周恩来と松本亀次郎の「ろう人形」が掛川市に寄贈され、掛川市大東図書館に設置されました。また2021年、松本亀次郎の生家跡に、松本亀次郎記念日中友好国際交流の会により、中国からの留学生教育への多大な功績を記念する「鶴峯堂」が建立されました。松本亀次郎の功績は今も燦然と輝やいています。

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【鶴峯堂】

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【寄贈されたろう人形】