中国で最新のユネスコ世界文化遺産
今回は、2025年7月にユネスコ世界遺産リストに登録された「西夏陵(せいかりょう)」をご紹介します。これは現在の寧夏回族自治区(銀川市)を中心に、チベット・ビルマ語系のタングート族が建国した西夏王朝(1038-1227)の遺跡で、約40平方キロメートルの範囲には、最大約23mの9基の王陵(王の墓)と、271基の臣下・親族の墓が点在しています。
西夏王朝の歴史は、「黄巣の乱」の鎮圧で功績を挙げたタングートの一族が、唐の皇帝から李姓を賜ったところから始まります。北宋時代に独立を宣言し、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国に滅ぼされるまで約190年間の歴史を歩みましたが、中華王朝の「正史」には組み込まれませんでした。
この西夏王朝の立ち位置を理解するために、中華王朝の「正史」について簡単に触れましょう。中華の歴史においては、前代の王朝史を編纂することが正統な後継王朝の責務とされ、その系譜を伝える二十四史(『史記』、『三国志』、『宋史』など24の歴史書)が残されています。すなわち、正史とは正統な後継王朝が自らの正当性を証明するために編纂した歴史書で、その基準には儒教的な正統観が色濃く反映されていました。
当時の正史の編纂を担っていた元は、華北地方で北宋と並び立っていた遼(契丹族)・金(女真族)を正統な王朝として認め、歴史書を編纂した一方で、西北地域で独自の発展を遂げていた西夏の歴史書は編纂されず、他王朝の歴史に断片的にのみ登場する国となりました。
ピラミッド状の墳丘と謎の文字
この遺跡が世界から注目されたのは1930年代、ドイツ人飛行士、エーリヒ・フォン・カステル(Erich von Kästner)が飛行中に大小のピラミッド状の墳丘を撮影したのがきっかけでした。現場からは、漢字のような石碑が見つかったものの、この文字に関する記録が残っておらず、その解読は難航します。これを解く鍵となったのが、ロシアの探検家、ピョートル・コズロフ(Pyotr Kozlov)が1908年に数百キロ離れた内モンゴル南部のゴビ砂漠で発見していた文物でした。彼が発見した数千冊の仏教経典の中に、『番漢合時掌中珠』という「西夏語と中国語の辞書」が含まれていたのです。後年、この辞書が研究されることで、西夏文字が漢字の要素を用いて作られた「漢字とは系統を異にする独自の文字」であることが判明しました。1970年代からは本格的な発掘調査が行われ、この遺跡が中華王朝の正史に断片的に記録が残されていた西夏の遺跡だとわかったのです。
独自の文明を築いた西夏王朝
西夏王朝は、独自の文字を生み出したほか、唐・宋の伝統を取り入れつつも、遊牧民の生活や仏教の教えを発展させて独自の文明を形成しました。
例えば、西夏陵の巨大な9基の陵墓は、いずれも中軸線からずらして建築されています。これは、研究者の一説によれば、中軸には鬼神が宿るとされ、長安のように「皇帝は天子(神の子)」として、中軸線上に皇居を配置した中国の伝統的な都城計画とは異なる概念を持っていた様子が伺えます。また、いずれも中軸線の西側に陵墓が設置されているのは、仏教の西方浄土信仰と関連付ける見方もあります。
文明の多層性を伝える西夏陵
西夏は、中華王朝の二十四史には編纂されませんでしたが、近年の研究によって、独自の文字、建築、埋葬制度を生み出していたことが明らかとなり、その文明の足跡は「残すべき価値あるもの」として世界遺産リストに登録されました。
私たち人類が学んできた歴史は、程度はあれども各国・地域の視点による「主観」が反映されています。しかし、その視点が変わると歴史は全く違うストーリーになるでしょう。西夏陵は、従来の中華文明における二十四史の枠組みを超えて、多様な文明が実在していたことを、現代の私たちに伝えているのです。
<現地への交通アクセス>
・最寄空港:銀川河東国際港(上海から約3時間)
・現地交通:同空港からタクシーで約1時間
・入 場 料:68元~(日本円で約1,600円~:2026年8月現在)
・訪問時期:酷暑・厳冬を避けた春(4~6月)・秋(9~10月)がお勧めです。