≪協議会ニュース

・ 2022年(12月号、10月号、7月号、3月号)

・ 2021年(12月号、10月号、7月号、3月号)

・ 2020年(12月号、10月号、7月号、3月号)

 ・  2019年(12月号、10月号、6月号、3月号)   

・ 2018年(12月号、10月号、7月号、3月号)

 2017年(12月号、9月号、6月号、3月号) 

 

《浙江省の名酒を巡る旅》

・ 米酒(2022年12月)

・ 黄酒(2022年10月)

・ 白酒(2022年7月)

 

《History Trip 松本亀次郎の教え子》

・ 秋瑾(2022年12月)

・ 魯迅(2022年10月)

・ 周恩来(2022年7月)

 

《ヒストリー タイムトリップ》

・ 中国の四大美女 西施(2022年3月)

・ 中国の四大美女 王昭君(2021年12月)

・ 中国の四大美女 貂蝉(2021年10月)

・ 中国の四大美女 楊貴妃(2021年7月)

 

≪中国report≫静岡県日中友好協議会 交流推進員 横井香織による寄稿

・ 歴史的建築物から寧波の今を見る~月湖と天一閣~(2022年12月)

・ 歴史的建築物から寧波の今を見る~鼓楼~(2022年10月)

・ 歴史的建築物から寧波の今を見る〜三江口〜(2022年7月)

・ 寧波の人々- 過酷な競争社会の中の学生たち(2022年3月)

・ 寧波の人々- 増える「新寧波人」(2021年12月)

 

≪ミニレポート≫

・ 中国のビッグデータ市場規模 2025年には54兆円に(2023年1月)

・ 超難関 中国の国家公務員試験(2022年12月)

・ 送出国と受入国としての中国の国際移民(2022年11月)

・ 中国におけるNFT市場の今(2022年10月)

・ 中国の新国家プロジェクト「東数西算」(2022年9月)

・ 活気づくデジタルツイン技術(2022年8月)

 

ビッグデータ産業とは、データの生成、収集、保存、加工、分析、サービスを主業務とする戦略的新興産業で、データ要素のポテンシャルを活性化する重要な支えとなり、経済社会の発展の質の変革、効率の変革、原動力の変革を加速する重要なエンジンとなるものです。中国の工業・情報化部(省)が2021年に発表した「第14次五カ年計画ビッグデータ産業発展計画」では、データに関する先端技術やデータ取引市場の育成を進め、国家のデータ安全を確実に保障することを骨子としており、2025年までに、中国のビッグデータ産業の市場規模は3兆元(約53兆円)を突破し、平均複合年間成長率は25%前後を維持し、イノベーション力が強く、付加価値が高く、独自コントロールが可能な、現代化されたビッグデータ産業システムをほぼ構築するとの見方を打ち出しました。
 
中国政府は、17年施行のインターネット安全法に加え、2021年にはデータ安全法、個人情報保護法を相次ぎ施行しました。3本の法律でデータの統制を強化して海外へのデータの持ち出しを厳しく制限しており、新たな五カ年計画でも外国の制裁などの影響を受けないビッグデータ産業体系の構築を目標に盛り込んでいます。
 
今や世界最先端のビッグデータ集積地となっている貴州省は、2013年に経済政策としてビッグテータに傾倒し始めました。まさに中国の「ビッグデータ元年」と呼ばれる節目の年です。貴州省は、夏も比較的涼しい気候であり、森林カバー率が49%で中国の中では空気がきれいな方です。また、洪水はほとんどなく、台風やハリケーン、大雪などの脅威もありません。さらに水資源も豊富だった点が、データセンターの設置条件に適しており、もともと中国最貧エリアだった貴州省は、クラウドによって変貌を遂げました。
 
そして、中国のビッグデータ産業が急速に台頭したのは、第13次五カ年計画(2016-2020年)期間です。試算によれば、ビッグデータ産業規模の平均複合年間成長率は30%を超え、20年には1兆元を突破し、産業の発展が著しい成果を上げています。第13次五カ年計画以来、北京・天津・河北、上海市、貴州省などにある8つの国家ビッグデータ総合試験区で先行テストが行われ、ビッグデータ分野の国家レベル新型工業化産業モデル拠点が11ヶ所建設・設置され、ビッグデータ産業の集積を力強く推進し、産業の集積によるモデル効果が著しく高まりました。
 
中国のビッグデータ市場規模は、2025年には54兆円になると言われています。データ資産データ資産の権利、その取引と流通、データ・セキュリティなどに関する制度の整備や標準化に取り組み、市場メカニズムに基づく価格形成の促進や、政府の管理・監督の目が行き届くデータ関連市場の仕組み作りが進められています。すでに北京市と上海市に「ビッグデータ取引所」が設立されました。工業情報化省はさらに、通信、金融、医療、交通、都市の治安管理、信用情報、社会保障など12分野の重点産業において、産業分野別のビッグデータ・プラットフォームを構築し、データの資産化と商品化を進める計画です。                
(人民網等を参考に整理)
 

寧波の中心部、天一広場の西側に月湖という名の湖があります。その月湖の西岸に位置するのが天一閣です。天一閣は、中国で現存する最も古い蔵書楼で、寧波を訪れた人を案内するとき、欠かせない場所です。ここに保存された大量の文献は、歴史の空白を補うために大きな貢献をしました。今回は、寧波の文化的な観光スポットである月湖と天一閣の歴史を紹介します。

月湖は、唐代に開拓され、636年に完成した湖です。南宋紹興年間に、月湖の周りに四季折々の花や樹木が植えられ、「月湖十洲」(景勝地)が造られました。また、宋元代以降、明州(寧波)が輩出した文人や学者など知識人の多くが月湖周辺に集まり、「浙東学術センター」と呼ばれるようになりました。その後も、高麗使行館(迎賓館)や、銀台第(官僚の邸宅)が建設され、現在はそれぞれ博物館になっています。 

天一閣は、月湖の西岸にあり、1561年から1566年に明朝兵部の官僚だった範欽が私有の書庫として建てたものです。範欽は読書家で、地方志や行政書、科挙の記録、詩文集などを所蔵していました。範欽が最初に建てた蔵書楼を、「東明草堂」といいます。やがて退官すると彼の蔵書は増え続けて7万余巻となり、新しい蔵書楼を建てる必要性が生まれました。範欽は、『易経』の「天生一水地六承之」の部分の意味(水を借りて防火し書物を保つ)から、「天一閣」と名づけました。命名した通り、蔵書楼の隣に防火のための池を設置しました。 

範欽の死後、天一閣と7万余巻の蔵書は長男の範大冲が、「蔵書は天一閣から出さない」という父の教えとともに受け継ぎました。さらに曽孫範光文が、建物を修復し、花や樹木を植えて楼閣を整備しました。しかし、アヘン戦争や太平天国の乱、日中戦争など戦乱のたびに蔵書が略奪され、売りに出されました。1939年には、蔵書はわずか9,000巻になりました。戦争終結後、天一閣の蔵書は徐々に取り戻されました。1982年になると、蔵書は30万巻となり、蔵書の保護と古籍の修復が行われるようになりました。

現在の月湖公園は、寧波人にとって休日に家族でのんびり過ごす憩いの場です。私も、寧波で暮らしていたころ、公園内の金木犀の香る小道を歩いたり、黄色に輝くイチョウの林を見にいったりしました。月湖公園や天一閣は、他の公園と違い、その風景の中に寧波の歴史の重みや文化の香りを感じられる特別な場所のように思いました。

【天一閣正門】

【月湖公園】

醸造酒の一つである米酒は、もち米を原料に醸造した甘い酒を指します。蒸米、保温、発酵、蒸留、貯蔵とシンプルな工程ですが、これらの工程の背後には、酒造りの杜氏の経験と技術が必要不可欠です。浙江省では、寧波の白糯米酒が知られています。

冬に醸造されるもち米酒

冬に醸造されるもち米酒は、より一層芳醇で濃厚に仕上がり、より好まれます。江南地方には、冬至の日に一杯の米酒を飲むと、来年はより甘い日が訪れるという地元のことわざがあります。特に寧波の人々にとっては、旧正月(春節)のお祝いに、この米酒は欠かせないと言わしめるほどであり、各地で自家醸造の米酒を飲む伝統的な風習があります。

中国の米酒文化の長い歴史の中で、寧波米酒は輝かしい歴史を持っています。歴史的記述によると、約5,000年前、余姚の河姆渡人は飲酒活動があり、唐の時代より明州米酒(寧波米酒)は宮廷献上酒になりました。しかし、1970年代以降、国内の醸造会社がスピードと生産を追求するにつれ、伝統的な白薬発酵を小麦麹と根粒菌に置き換え、野外発酵を鉄樽と大型タンクに置き換え、現代の紹興酒を模倣し、徐々に「昔の味」を失っていきました。衣食住が豊かになると、農民は余った穀物を使って米酒を作るようになり、幸福な生活と豊作を象徴する冬至に米酒を作る習慣が次第に再び盛んになりました。

寧波美食に欠かせない「白糯米酒」

寧波の白糯米酒は、原材料に水・もち米・小麦を使い、寧波天河生態風景区の水源の水が良しとされ、アルコール度数10.5%程度の仕上がりになります。白糯米酒は、味付けが濃い寧波料理にもよく合います。また、料理の調味料として使われることも多くあります。

白糯米酒には、健脾開胃、舒筋活血、除湿消痰、補血養顔、延年益寿の機能があり、中高年者や虚弱者に適し、もち米の成分が漢方薬として甘性温、脾臓・腎・肺に入り、温胃健脾、益気止瀉、生津止汗を促して補益機能を強化するだけでなく、活血通絡の作用もあると言われています。

 

清国政府は国民教育の手段として、万を超える清国留学生を日本へ派遣し、日本政府も国策として、留学生や中国の学校教育をバックアップしていました。しかし、清国政府の思惑とは逆に、啓蒙によって自国の惨状に目覚めた留学生の多くは、体制打倒の革命に走りました。清末の女性革命家・秋瑾(しゅうきん/1875年~1907年)も日本へ留学したその一人です。

秋瑾の原籍は、浙江省紹興府山陰県ですが、彼女の祖父・秋嘉禾が廈門府の長官として赴任し、これに一族が同行したため、福建省の廈門で生まれました。当時の廈門は、イギリスが強制的に開かせた港です。府長官である祖父は、絶えずイギリス人に侮辱され、その怒りが幼少の秋瑾にも伝わっていたと言われています。名家で育った秋瑾は、子どもの時は纏足をさせられていましたが、革命思想に目覚めると纏足を恥じるようになり、代わりに武芸に励み、刀剣(特に日本刀)を愛好していました。母親は、教養豊かな女性で、秋瑾は11歳で詩を詠むことを覚え、杜甫・辛稼軒の詩詞集を手放さなかったといいます。その傍ら、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えていました。

1895年、親が決めた湖南省の豪商の長男・王廷鈞と結婚し、北京に住み子供もできましたが、酒浸りの夫に愛想を尽かし、やがて日本留学を志すようになります。多くの知識青年が、国内での弾圧を避けるとともに、外国文化を吸収する窓口として、先進国である日本に留学し、横の連絡を取り合ってそれぞれの立場に応じた革命結社を結成していました。

人一倍知性と気骨に恵まれた秋瑾は、この祖国の危機を打開する運動に挺身する必要があると考えていました。日本の女子教育が、中国より進んでいることなどを聞いたりしたことが、彼女の留学熱に拍車をかけ、1904年家族を置いてついに日本へ留学し、松本亀次郎がいる弘文学院に編入しました。後に反清革命運動に身を投じるようになり、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」に参加したり、また女性だけの「共愛会」も創設したりしています。当時の秋瑾は、清服を嫌って、和服を着用し、好んで短刀を身につけていました。その後、実践女学校(現実践女子大学)に入学し、教育・工芸・看護学なども学び、麹町神楽坂の武術会にも通い、射撃を練習し、爆薬の製法まで学んでいました。しかし、中国革命運動に対する取締りが強化され、1905年日本政府が出した、「清国留学生取締規則」に憤激して留学を打ち切り、同年12月に帰国しました。1907年、徐錫麟が紹興で作った体育専門学校「大通師範学堂」の後任の責任者となり、革命運動に参加し、当局に目をつけられるようになり、蜂起計画を察知されて逮捕され、翌日、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑されました。31才の若さでした。その後、秋瑾の死は、新中国黎明期の革命運動の精神的支柱となりました。

【日本留学時代の秋瑾】

【松本亀次郎】

中国の「国考」と呼ばれる国家公務員試験は、超難関といわれています。毎年、10~11月の間に実施され、2009年に国家公務員試験の出願者数が初めて100万人を超えて以来、その後10年余りの出願者数は年々増え、いずれも年間100万人以上となっています。昨年は、書類審査を経た受験者数が初めて200万人を突破し、倍率はなんと約68倍でした。2023年度の国家公務員試験は、採用規模は3万7100人で、募集職位は合計1万7655の職位が設けられており、主に税務、消防、税関、鉄道警察等に集中しています。4年連続で採用が拡大されていますが、人気職位の応募倍率は、なんと6000倍近くにもなっています。

今年の国家公務員試験は、大きな特徴が2点あります。一つは、採用政策が新卒者に偏っていること、もう一つは、職位に対する学歴、専攻、職歴等の要求がより具体的になったことです。これにより、出願者は自身の状況に照らして、より自分にマッチした職位を選択できるようになりました。一部の職位では、学歴要件の引き下げ、専攻要件の緩和、勤続年数や経歴の制限なし等の措置が取られ、受験のハードルが下がったことも、一部の職位の人気を高めている原因です。

新型コロナウイルスの感染拡大による景気低迷等で、中国での不動産産業やIT関連等の民営企業は業績不振となっています。中国の公務員試験で、採用条件に「実務経験」を問うものが多く、日本のように新卒優先ではないことから、民営企業である程度の専門的スキルを身につけた人々が公務員試験に挑んでおり、競争の激化につながっています。

また、中国では、大学の新卒の人数が年々増加し、就職難が顕著になってきています。これまでは景気が良かったため、就職はそれほど難しくはなく、名門大学を出れば、国家機関や有名な大手企業に就職ができる人も多くいました。しかし、ここ数年は、雇用市場が大卒を吸収しきれなくなってきており、大学新卒者の就職率は20%を割り込んでいます。2020年の大学新卒者は874万人で、約700万人は就職浪人となっており、その一部が公務員試験を受験しているとみられます。大学を卒業したが、希望する仕事が見つからなかったため、とりあえず大学院へ進学するという動きも活発になってきています。昨年の大学院の受験者数は457万人に達し、2020年より80万人増え、過去最多記録を更新しました。しかし、修士課程の学歴を取得しても、それに見合った仕事に就くことができない人も増え、「高学歴貧乏」等と言われたりしています。

公務員は、鉄でできている飯の茶碗、(*中国語で「鉄飯椀」)と言われ、転じて『絶対に潰れない職場の安定した職』という意味です。実際、公務員の離職率は毎年0.05%で、よほど自ら過ちを犯さない限り、職を失うことはほとんどありません。こうした背景から、公務員人気は過熱しています。しかし、一方、公務員でも消防局や統計局調査隊(日本の国勢調査調査員に相当)、鉄道警察官等危険が伴うポストは不人気です。深刻な就職難により、若者は「安全・安定・安泰」の職業を求めるようになってきていると言えます。

(AFPBB News等を参考に整理)

近年、グローバル化を背景に、さまざまな人材が動態的に流動しており、海外移住する中国人も増加しています。新型コロナウイルスの影響はありますが、国連移民局が発表した「World Migration Report 2022」によると、中国から他国へ移民した人は約1,000万人、中国は世界四大の移民送出国の一つとなっています。

具体的な移民先を見ると、中国は米国への移民では第2位の移民送出国であり、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・英国への移民では、第1位の移民送出国です。また、ドイツへの留学生送出国としては、中国が第1位となっています。

しかし、中国移民が直面する問題も多々あります。例えば、ここ数年来、先進国の経済は相次いで回復していますが、失業問題は依然として厳しい状況にあります。また、就職した移民の中には、仕事の実施の需要よりも専門技能が高く、仕事と学んだ専門技能が一致しないような状態にある人も多くいます。就業していても、実際の能力や仕事の経験が十分に発揮されていないことも珍しくありません。

中国の国際移民受入国としての面を見てみると、中国も国際移民を受け入れるようになってきました。現在、主に韓国、米国、日本、ミャンマー、ベトナムなどから来た外国人約85万人が中国に住んでいます。中国の第7回全国国勢調査(2020年実施)の結果によると、登録されている外国人は 845,697人。目的は、77,008人が事業、444,336人が就職、219,761人が留学、419,517人が定住、74,735人が親族訪問、195,338人がその他となっています。

滞在地域分布をみると、外国人常駐人口の上位10省は、広東省418,509人、雲南省379,281人、上海市163,954 人、福建省106,248人、北京62,812人、江蘇省58,201人、浙江省46,189人、広西チワン族自治区26,043人、山東省21,829人、遼寧省20,562人となっています。

中国経済の急速な成長と低い生活コストが多くの国際移民を誘引しています。また、多くの多国籍企業や海外に進出している中国の国有企業に外国人従業員を雇用する機会があることや、賃金収入を見ると、アジアの中で中国は最も外国人に人気がある国であることなどが理由として挙げられます。中国政府の人材強国戦略の実施に伴い、各種の海外ハイレベル人材を引きつける計画、政策が続々と登場し、ハイレベル人材の中国在住者も増加しています。しかし、海外から人材を呼び込んだ後、その人材を引き留めるためには、世界トップクラスの産業構造と生態環境、コミュニティ環境などの整備が必要となってきています。

活発な国際移民の状況は、中国の移民政策に対して、中国国内の人材を引き留めることや、多国籍人材を引き付けることの二重の要求をもたらしています。他の先進国と比べて、中国の移民法律政策は依然として系統性、規範性、展望性では強くない状況にあり、今後、関連法律の制定などまだ多くの課題があり、今後、必要な整備をしていく状況があるといえます。

 (騰訊網などを参考に整理)

寧波で最も活気にあふれた天一広場からほど近いところに、鼓楼があります。これは、中国の城郭都市に建てられた太鼓を設置するための建物で、太鼓は時刻や緊急事態を知らせるために鳴らされました。寧波の鼓楼は、唐の長慶元年(821年)、明州子城の南門に建てられた最も歴史のある建物です。とはいっても、何度も破壊と再建をくり返し、現存する建物は、1855年に再建されたものです。

鼓楼

鼓楼の門をくぐると、広い商業エリアが広がっています。ここは小吃店(軽食堂)をはじめ、お菓子、雑貨、切り絵、絵画、刺繍、彫刻、楽器などを売る大小さまざまな店舗が並んでいる鼓楼歩行街です。寧波物産店は 2階建てで、果物や銘菓、それに寧海の黒豚の肉や海産物なども販売していました。メイン通りだけでなく、いくつもの路地があり、かなり広いエリアです。同僚の案内で、商業エリアの一角にある茶葉の専門店や、肉や魚、野菜が並ぶ巨大なセンター市場へも出かけました。

何度か訪れるうちに、近くにある天一広場とはだいぶ雰囲気が違うことに気づきました。若い世代に人気のあるブランド品などは見当たらず、浅草の仲見世通りのような庶民的な雰囲気を感じるのです。同僚によれば、鼓楼のエリアは、寧波を代表する伝統的な食や文化が集まるところだそうです。商店だけでなく、絵画や楽器演奏などの教室があり、文化活動の集散地でもあるようです。だから老寧波人(寧波に生まれ寧波で育った人びと)が懐かしさや親しみを感じ、好んで出かけるということなのです。そういえば親しくなった茶器専門店の女性店主は老寧波人で、よく訪ねてくる客人もまた老寧波人でした。2人の会話は、普通話(北京語)ではなく、寧波話(寧波語)でした。鼓楼地区の周辺には、宋、元、明代に使用された倉庫跡(永豊庫跡地)や城壁遺跡、少し離れたところには、中国で最も古い図書館である天一閣などが点在しています。街中にある遺跡や歴史的な建造物は、寧波の人びとの日常と同居していて、不思議なくらい違和感がありません。

洗練されたおしゃれなショッピングエリアの天一広場近くに存在する、古きよき老寧波の風景。油賛子(伝統的なお菓子)や切り絵、玩具などがならび、老寧波人が散策する通りや路地。鼓楼は、寧波の歴史や文化の重みを感じるこのエリアの象徴なのです。

 
鼓楼エリア
寄稿:横井香織

日清戦争後、清朝政府は日本へ派遣する留学生の受け入れを、日本政府に依頼しました。その後年々、日本留学のニーズが拡大し、1902年、清国の留学生のために予備教育機関「弘文学院」(翌年、宏文学院に改名)が、嘉納治五郎によって設置されました。松本亀次郎は、ここで日本語指導にあたり、魯迅はその教え子の一人です。

魯迅

魯迅(本名:周樹人)は、1881年浙江省紹興に生まれました。代々学者の家筋で、祖父は翰林学士(かんりんがくし)で北京に住み、父親も相当の学問を修めた人でしたが、その後、祖父の投獄、父の病死と続き、家は貧困状態となります。魯迅は、17歳の年に南京の江南水師学堂に給費生として入り、翌年江南陸師学堂付属の鉱路学堂に移って1902年に卒業します。当時の清朝政府は、日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めており、魯迅は20歳の若さで、官費留学生として日本へ派遣されました。

来日後、魯迅は先ず、東京の弘文学院予科に入学し、この学校で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けました。日本留学の1年目、魯迅は日本語や普通課程の勉強に全力を尽くしていたといいます。当時の同級生は、「当時、魯迅の弘文学院での勉強量はかなりすごいもので、普段毎日深夜まで一生懸命勉強し、驚かされる程の意志力だった」と魯迅の生活ぶりを語っています。

松本亀次郎

1903年に弘文学院に招かれた松本亀次郎は、最初に担当したクラスで、のちに「中国近代文学の父」と称される魯迅こと周樹人と出会い、ここで日本語の指導にあたりました。松本亀次郎の回想によると、魯迅の日本語翻訳は最も穏当かつ流暢だったため、「魯訳」と言って訳文の模範としていたほど優秀でした。来日後2年目から、魯迅の活動は学校での勉学の範囲を超え、様々な面にまで及び始めました。「欧米や日本の書籍を渉猟し、日本語を学びながら翻訳をしていた」と同級生は語っています。

その後、魯迅は仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入り、1909年の8月まで日本に滞在し、日本での留学は7年余りとなりました。仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野先生との師弟交流は、小説「藤野先生」で伺い知ることができます。

魯迅は日本滞在中に、中国人への精神啓蒙・思想啓蒙・科学啓蒙の活動に力を入れ始め、祖国の危機、中国人の精神を救うために自らの力を捧げる信念を固めていきました。文学の道に進むことを決心した魯迅は、仙台医学専門学校を退学しましたが、この留学は、さまざまな意味で魯迅の出発点となり、彼の思想と文学の骨格は、この時期に作り上げられました。

2021年頃から、NFT(非代替性トークン)が世界的に注目を集めています。NFTとは、コピー防止措置やナンバリングにより「代替できないことが証明されたデジタルデータ」のことで、中国でもNFT市場拡大の流れが起きていました。しかし、2021年9月、中国政府は仮想通貨の決済や取引情報の提供等、仮想通貨に関連するサービスを全面的に禁止すると発表しましたため、中国では規制と共存しつつ、他の国とは違う独自のNFT市場が形成されています。

現地の報道によると、中国国内におけるNFTマーケットプレイス(NFT取引所)は、2022年2月の時点では100あまりでしたが、6月にはその数が500を突破し、たった4か月で5倍にまで増加しました。これは、アリババやテンセント等中国の巨大テック企業が本格的な参入をしてきたのが要因です。しかし、NFTへの関心が高まる一方で、中国では仮想通貨が禁止されているため、海外で一般的に言われる「NFTアート」に対して、中国の「数字収蔵(デジタルコレクション)」と呼ばれる商品は、似て非なるものだといえます。

数字収蔵(デジタルコレクション)とは、仮想空間上の音楽や絵画、動画、アート玩具、フィギュア等のコンテンツを指します。中国で販売されているデジタルコレクティブル(数字収蔵品)を見ると、政府が文化のデジタル化戦略を打ち出している影響もあり、博物館の収蔵品や京劇等中国の伝統文化にまつわる品々が、全体の約7割を占めています。

NFT取引における海外と中国との違いは、4つあります。1つ目は、決済通貨が人民元のみとなっていることです。NFT取引する際の決済では、ビットコインやイーサリアムといった仮想通貨を用いるのが一般的ですが、中国政府はブロックチェーン資産に対して厳しい統制を加えており、仮想通貨を禁止しています。そのため、NFTを取り扱う中国のテック大手企業の多くは、当局の規制に配慮して「NFT」ではなく「デジタルコレクティブル(数字収蔵品)」という言葉を使用し、慎重なアプローチをとっています。

2つ目は2次売買ができないことです。一般的なNFTのように世界に開放されたブロックチェーンではなく、中国政府の管理下にある外部から遮断されたブロックチェーンを利用しているため、転売による収益化は期待できません。

3つ目は、取引所に管理者が存在することです。NFT取引所を始めとするブロックチェーン関連組織の意思決定は、特定の誰かによってではなく、組織全体で行うものだという考え方が一般的ですが、中国のNFT市場では、管理者がそのブロックチェーンの廃止を決定した場合、一瞬にしてそのデジタル資産にアクセスできなくなるというリスクがあります。

4つ目は、中国のNFTマーケットプレイスでは、全ての参加者に実名での身分登録を義務付けていることです。一般的なNFT市場は、誰でも匿名で参加できるのに対して、利用の認証が必須とされていることにより、マネーロンダリングや詐欺といった犯罪防止に役立つとされています。

中国のNFT市場は規制と共存しつつ、他国とは異なる独自の成長を遂げていますが、一方で、ネットサービス大手のテンセントが、販売不振により、リリースから1年も経たないうちに、NFTを応用したデジタルアートの取引アプリ「幻核」の事業見直しに着手しています。現在、中国当局は、NFTについての規制や法整備は発表していませんが、今後、国内NFT市場が過熱し、二次流通等の違法行為が増えていくと、規制を本格的に強化する可能性もあり、市場の動向は政府の判断次第で変わっていくと考えられます。

(財新Biz&Tech等を参考に整理)

黄酒は米・麦・とうもろこしなどの穀物を原料に、麹の力で糖化・発酵させて造られる醸造酒で、ビール、ワインと並ぶ世界最大の古酒です。酒色は、濃黄色や赤味をおびた黄色のものが多いことから「黄酒」と呼ばれ、黄酒の中でも長期熟成させたものを「老酒」とも呼びます。黄酒はそれぞれの地方独特の伝統的な方法によって醸造され、種類が非常に多く、一つ一つに独特の個性があります。その中で紹興酒は黄酒を代表する最高峰のお酒で、紹興黄酒、紹興老酒とも呼ばれています。紹興酒の醸造技術は2006年に無形文化遺産に認定されました。

黄酒

「黄酒の銘品・紹興酒」

アルコール度数1520度の紹興酒は黄酒の中でも銘酒と評価されています。主原料は糯米と麦麹、辣蓼草(からだて)、陳皮、肉桂、甘草などで作られた薬酒を用いています。紹興酒は『紹興市の名水と称される鑑湖の清水で仕込み、製造後3年以上の貯蔵熟成期間を経て製造したもの』という厳密な定義があります。また、現在では中国政府によって、紹興市以外の土地で作られたものは、「紹興酒」を名乗ってはいけないことになっています。漢方薬の薬引(塗り薬)としても使用されています。

一般に、紹興酒は鶏肉や鴨料理と相性がいいといわれていますが、熟成年数の違いで、合う料理が異なります。紹興酒はワインと同じように甘口から辛口の4種類に分かれています。糖分含有量によって香雪(甘口)、善醸(中甘)、加飯(中辛)、元紅(辛口)があり、市販されている紹興酒のほとんどは、加飯に分類される中辛が主です。

紹興の継承文化にかつて、娘が生まれたのを機に新酒の紹興酒の甕を地中に埋めて、娘が嫁ぐ日にそれを掘り起こして振舞われ、また絵付け(花彫)して嫁入り道具にしたという伝統があったため、紹興酒は「花彫酒」という別称で呼ばれることもあります。今日では、この花彫酒が長期熟成種の愛称としても使われ、この熟成の長さに応じた味わいの変化が紹興酒の魅力でもあります。

花彫酒

「独特の味わいをもつ嘉善黄酒」

嘉興市の嘉善県にも、特色ある銘酒「嘉善黄酒」や「西塘黄酒」があります。嘉善の醸造業は、明清時代には、すでに非常に発達しており、西塘には、歴史上多くの黄酒工房がありました。もち米と熟成した黄酒を原料とし、伝統的な製法と技術で冬に醸造されています。「嘉善黄酒」の酒色は黄色、透明で光沢があり、香りが豊かで甘く、まろやかで柔らかい半甘口の黄酒で、18種類のアミノ酸を含み、栄養価も豊富です。「西塘黄酒」も、まろやかで芳醇、独特の味わいがあります。

中国では、歴史上「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。

楊貴妃(719〜756)は、唐代の玄宗皇帝の妃で、蜀の国(現在の四川省)の地方役人をしていた楊家に生まれ、もともとの名は玉環といいます。十代で親を亡くし、叔父に引き取られて育ちます。735年(開元23)、玄宗の息子の妃として迎えられましたが、玄宗は楊玉環の容姿に一目惚れし、夫の母武恵妃の死後、玄宗の求めで女冠となり太真の号を授かり、4年後正式に後宮に入り、翌年『貴妃』となりました。『貴妃』とは、中国の後宮の中での地位で、トップである皇后の次に位の高い地位です。

楊貴妃s.jpg

日本で広く知られる、白居易の長編漢詩『長恨歌』は、悲劇の美女をうたったものです。長恨歌に登場する漢の皇帝は玄宗皇帝、皇帝から寵愛を受けた楊家の娘は、楊貴妃がモデルとなっています。

長恨歌にある『温泉水滑洗凝脂 雲鬢花顔 花貌 芙蓉如面柳如眉』(温泉の水がなめらかに凝脂を洗う/ふんわりとした髪の生え際/芙蓉の花のような顔立ち/柳のようなほっそりとした眉)と、楊貴妃の美しさをうたっています。また、登場する楊家の娘が漢の皇帝から賜ったという『華清池の温泉』は実在し、西安の観光スポットとなっています。

楊貴妃が庭を散歩すると、あたりの花々が彼女の美貌と芳香に気圧され、しぼんでしまったという伝承が「羞花美人」(花も恥じらう美女)といわれる由来となっています。

美しさだけでなく、才知があり琵琶や笛、磬 (けい)などの楽器や踊りにも長けていたことでも知られています。玄宗の寵愛を一身に受け、一族はみな高官に上り、又従兄弟の楊国忠は、宰相として権力をふるっていました。しかし、権勢をほしいままにしていたので恨みを受け、安禄山が乱を起こすと、玄宗と楊貴妃は共に蜀に逃れようとしましたが、途中で軍隊の反抗にあい、兵士の殺害要求により、玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じました。

楊貴妃は、その艶麗さ、玄宗との交情、栄枯の激しさなど、同時代からすでに文学作品の題材となることが多く、白居易の『長恨歌』、陳鴻の『長恨歌伝』をはじめとして、詩歌、戯曲、小説、随筆に数えきれないほどの作品が書かれています。

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。貂蝉は、中国の四大美女の中では、おそらく唯一架空の女性です。『三国志演義』(3世紀・三国時代、約100年の乱世に活躍した英雄を語る小説)に登場する貂蝉は、聡明、美貌、技芸に優れた女性です。憂国の思いで月を眺めているとき、そのあまりの美貌に、月さえも雲に隠れてしまった逸話から、別名「閉月美人」とも呼ばれています。

『美女連環の計』(三国志演義より)

『三国志演義』では、後漢(25年〜220年)の献帝の大臣・王允が、美女(王允の養女・貂蝉、年齢は数え年で16歳)を使って陥れる「美人計」と、仲を裂く「反間の計」の二つを使った策略「美女連環の計」を企て、董卓の殺害に成功します。これは、時代が動く見せ場の一つとなっています。


物語:貂蝉は王允の企てを承諾し、王允は貂蝉を娘として呂布に引き合わせます。呂布は彼女の美しさに心奪われ、側室として彼女をもらい受ける約束をします。さらに王允は、貂蝉を董卓にも会わせ、彼もまた彼女の美貌に心奪われます。貂蝉は迫真の演技を繰り広げ、呂布の董卓への憎悪をかき立てていきます。やがて呂布は王允に打倒董卓をそそのかされてその気になり、登城の途中で董卓を倒します。その後、呂布は貂蝉を側室として迎え入れましたが、徐州下城で敗れ、処刑されました。貂蝉をめぐる記述はここで終わっています。民間伝承や創作物では、曹操に引き取られたとか、関羽と恋仲になるも自害したなど、色々な説があります。


日本にも中国にも多くの貂蝉ファン

貂蝉雕像.jpg

『三国志演義』に貂蝉が登場するのは、この場面だけですが、貂蝉は秘密が漏れれば命を奪われる可能性があったにもかかわらず、最後まで王允との約束を守り、自分の感情に流されず使命を全うする「智」と「勇」の人で、美人であるだけでなく、儒教的道徳観からみても優れた人物として描かれています。


『三国志演義』は、中国人からとても愛され、広く読まれている物語です。貂蝉が四大美女に選ばれたのは、ほとんど男ばかり登場するこの物語の中で、たいへん美しく、しかも男顔負けの度胸を持っていたことが、中国の民衆の心をとらえたからといった見方があります。
貂蝉の最期は、作品によって、さまざまに解釈されていますが、吉川英治の小説『三国志』では、「忠」・「孝」・「貞」の価値観を再現するために、「連環計を果たした貂蝉は自害した」と表現していると言われ、日本にも多くの貂蝉ファンがいます。

今回は、大学卒業後、寧波で生活するシングルの若い世代について、その生活スタイルや価値観を紹介します。

寧波大学をはじめ寧波にある総合大学には、全国から学生が集まってきます。彼らは大学卒業後、故郷や上海などの大都市で就職するのが一般的です。ところが最近は、そのまま寧波にとどまる人が増えています。寧波以外の出身で、大学進学をきっかけに故郷を離れて寧波に移り住み、寧波に就職して生活する人々。彼らは「新寧波人」と呼ばれています。なぜ寧波で暮らすのか。それは、住み心地がよい、就職のチャンスが多い、上海より家賃が安い、生活のストレスが小さい、街がきれいで清潔、安全で文化的など、さまざまな理由があるようです。でも実は、寧波には新しく来た人を受け入れる土壌があるのではないか、というのが「元祖寧波人」の考えです。寧波は、かつて「寧波幇」と呼ばれた商人集団が、発展の基礎を築きました。隋唐の時代から「通商口岸」であった寧波は、海外との接触が多く、海外の生活様式や考え方を受け入れてきました。そういう開放的な寧波人の気質が、若い世代に支持されているのだと思います。

さて、若い世代の一番の関心事は何かというと、それは結婚です。結婚は、唯一の選択肢ではありませんが、シングルでいる人はそれほど多くありません。大部分の若者は、30歳くらいまでには結婚したいと考えています。農村出身の場合は、春節で帰省した時、親や親戚が一斉に「結婚、結婚」とプレッシャーをかけるため、時期は早まります。いざ結婚となると、かつての日本のように、結婚式と披露宴は盛大です。高級ホテルや美しい庭園のある施設、屋外などで、親戚、友人、職場など200人以上の人々を招待して披露宴を行います。中には、隋唐時代の民族衣装である「漢服」で結婚式を挙げる人もいます。若い世代には、伝統文化を復活させたいという動きがあり、「漢服」はその象徴的な存在です。

漢服で結婚式.jpg

漢服で結婚式(新婦は寧波大学の卒業生)】

若い世代のブームは、猫を飼うことです。男女を問わず、シングルでも既婚でも、若者、特に20代は猫が大好きです。寧波には猫カフェが数多くあり、若い女性で満席です。猫カフェに通うだけでは飽き足らず、ネットショップで猫を買い求めて猫と暮らしている人もいます。寧波市内には、ペットショップだけでなく、動物病院もあるので安心して猫と暮らすことができるのです。都市生活を楽しむ「新寧波人」の活力が、寧波の原動力になっているのは間違いないでしょう。

猫とともに暮らす.jpg

【猫とともに暮らす(寧波大学の卒業生)】

寄稿:寧波大学外国語学院外籍教師、静岡県立大学グローバル地域センター客員講師

   (静岡県日中友好協議会 交流推進員)横井 香織

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。王昭君は、紀元前1世紀ごろ、前漢の元帝時代の宮女です。外交上の犠牲として、異国に嫁いだ悲劇的な美女というキャラクター性は大変人気が高く、様々な物語が創作されています。

昭君村.jpg

王昭君は、今の湖北省興山県の庶民の家に生まれ、その美しさから、14歳の時に、民間から召し抱えられ、宮女として漢の後宮に入りました。当時の皇帝は、後宮の女性が描かれた肖像画を見て、寵愛の相手を選んでいたため、後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家の毛延寿に賄賂を贈り、自分を必要以上に美しく描いてもらっていました。しかし、王昭君は宮廷絵師に賄賂を渡さなかったため、故意に醜く描かれてしまいます。そのため、皇帝が後宮の女性の肖像画を見て召し出す時も選ばれませんでした。

モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」の君主・呼韓邪単于(こかんやぜんう)から、漢の朝廷に政略結婚を持ち掛けられ、漢がこの異民族の懐柔策として後宮の女性を嫁がせることになった時、元帝はこの肖像画を見て、醜く描かれていた王昭君を選び、嫁がせることを約束します。ところが、実際に会ってみると、絶世の美女だったため、元帝は後悔するのですが、すでに呼韓邪と約束してしまったため、仕方なく妻として与えることになりました。

王昭君が祖国に別れを告げ匈奴へ旅立つ時、琵琶をかき鳴らし、離別を悲しむ曲を奏でると、雁がその哀切な音色を聞き、馬上の王昭君のあまりの美しさに目を奪われて、翼を動かすことも忘れ、地上に落ちてきたという逸話があります。その逸話から、王昭君は別名「落雁美人」と呼ばれています。

匈奴に嫁いだ王昭君は、その後、一男をもうけましたが、呼韓邪単于が早くに死亡したため、当時の匈奴の慣習に従って、義理の息子である復株累若単于の妻になり、二女をもうけたと言われています。しかし、漢では夫の息子と結婚することは、近親相姦に相当する不道徳で汚らわしいものだと思われていたため、王昭君にとっては屈辱的なことでした。俗説では、夫の息子との結婚を虚偽するために、服毒自殺したと言われています。そのため、王昭君の物語は漢王朝と異民族との間で翻弄された薄幸の美女として描かれることが多いようです。王昭君の薄幸ともいえる生涯は、後世に長く語り継がれ、日本にも伝来して『今昔物語集』に「漢前帝后王昭君行胡国語」として取り上げられています。

今回は、寧波の学生たちの生活スタイルや価値観を紹介します。

中国では、毎年6月になると「高考」(全国統一大学入試)が行われます。日本でいう大学入学共通テストで、この試験の成績が若い人々の未来を大きく左右します。試験は1000点満点で、自己採点をして受験する大学を決めます。多くの学生は、全国の4年制大学約1300校の中で、国家重点大学(約110校)に入学したいと考えています。重点大学に入学できれば、公務員や国営企業などに就職できる可能性が高いからです。重点大学に入り、よい就職先を見つけて、高い収入や安定した生活を手に入れたい。こうした考えは学生のというより、親の願いです。

大学に入学すると同時に、寮生活が始まります。高校も寮生活なので、ルームメイトのいる共同生活には慣れています。寧波大学の学生寮は4人部屋で、部屋にはトイレ、洗面台、シャワー室があります。厨房はありません。食事は学生食堂や宅配、外食になります。授業は朝8時から夜8時25分まで行われ、さらに10時まで自習できるように教室が開放されています。日本の大学生に比べて授業数が多く、予習復習やテスト準備に追われて、ほとんどの学生がアルバイトやサークル活動をしていません。それでも高校までの勉強漬けの生活よりずっと楽しいと、学生たちは言っています。

学生たちにとって、大学は受験勉強の重圧から解放され、自分と向き合う場です。小・中・高では、勉強だけできれば良かったので、家事をしたことがなく、自分の将来を考えたこともなかった、そういう学生にたくさん出会いました。しかし、大学ではそういうわけにはいきません。成績に関係なく、多くの学生が目標のないことや未来を描けないことに悩んでいます。経済の急速な発展は競争を激化させ、格差が拡大しました。実力があっても、希望する職業や会社を見つけることが難しくなっています。学生が、将来に不安を感じるのも仕方ないかもしれません。

それでも、幼くて頼りなく見えた大学1年生が、4年生になると就職先や進学先を決めて巣立っていく姿を見てきました。4年間の大学生活は、学生が自分と対話し、生き方を考えるよい機会だったのだと思います。今年の6月、中国の大学新卒者が初めて1000万人を超えます。若い人々の未来が明るいことを願っています。

【寧波大学正門】

【寧波大学学生寮】

寧波大学外国語学院外籍教師  

静岡県立大学グローバル地域センター客員講師

(静岡県日中友好協議会 交流推進員)

横 井 香 織

中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。西施(生没年不詳)は、春秋時代の末期(紀元前5世紀)、越の国、現在の浙江省紹興市の諸曁の村で生まれました。本名は施夷光だといわれ、この村に「施」という苗字の家が村の東側と西側に2軒あったことから、西側の施であった彼女は、西施と呼ばれるようになりました。また、彼女は「沈魚美人」とも呼ばれ、彼女が「浣紗(川で洗濯をする)」をしていた時、そのあまりの美しさに、まわりの魚たちが泳ぐのを忘れて沈んでいったことに由来しています。

呉王・夫差が見とれた西施

春秋時代、隣り合わせた呉と越は、たびたび戦いを繰り返していました。越王の勾践(こうせん)が呉の先手を打って攻撃しますが逆に敗北し、勾践が呉王・夫差(ふさ)の奴隷となることで和睦しました。勾践は国に戻ると、かつての苦しみを思い出し復讐を誓います。勾践の部下に范蠡(はんれい)という優秀な武将がいました。越は呉を打ち破るために呉王・夫差に美女を献上して戦意を失わせようとする策略を立て、范蠡は美女をさがして国中を歩き、そこで西施を見出します。その後、西施は呉王・夫差の元に送られ、夫差は狙い通り、西施の美しさの虜となって政治や国防をおろそかにし、その結果、呉はついに滅亡に至ります。 

呉の滅亡後の西施は、一説では呉王が亡くなる前に、西施を皮衣に包んで長江に沈められてしまったという話や、もともと魅かれ合っていた范蠡とともに越から逃げ出し、その後二人で幸せに暮らしたという話など、様々な伝説が残っています。昆劇の代表作、明代の戯曲『浣紗記』では、ハッピーエンドの最期が描かれています。この物語では、越の将軍・范蠡と西施が、出会って互いに一目ぼれしますが、その後、西施は、貢物として呉王の元に送られ、呉は滅亡しますが、その後范蠡と西施の二人は再会し、太湖に舟を浮かべて愛を語り合うという内容です。

情人眼里出西施

李白の詩「西施越溪女、出自苧蘿山」の中の「苧蘿(ちょら)山」は、諸曁市南部の浣紗江の畔にあります。その苧蘿山の麓の巨石に、書聖・王羲之が「浣紗」の字を刻んでいることから、西施が洗濯をした場所として伝わっています。

西施に関連する言葉は、今も複数残っています。例えば、中国には「東施効顰」(東施ひそみにならう)という故事成語があり、これを日本語では「西施のひそみにならう」と訳し、人まねをして物笑いの種になる・人のやり方を踏襲することをへりくだっていう…などの意味で使われています。西施が出てくる故事成語に、「情人眼里出西施」(恋人の目には相手の姿が西施のように美しく見える)というのがあります。中国では、この故事成語は今もよく使われています。

今日の寧波市は、古く唐代から「明州」と呼ばれ、東アジア海域の交流で、重要な役割を果たしてきました。「明州」の名は、明代に「海定則波寧」(海が静かであれば波は立たない)という意味の「寧波」と改められました。寧波は改革開放以後、徐々に近代化が進み、21世紀には中国を代表する港湾都市に生まれ変わりました。歴史ある寧波の建築物から、現在の寧波の姿や人々の生活を見ていこうと思います。 

寧波古地図.jpg

寧波のシンボルといえば、まず三江口をあげることができます。三江口は唐代からの港で、甬江支流の余姚江と奉化江が合流して甬江になる地点です。日本からの遣唐使船は三江口に上陸し、その後の栄西や道元、雪舟などもここにやってきました。三江口の西側に、城壁で囲まれた寧波府城がありました。城壁の東側面と川にはさまれた江厦には、埠頭だけでなく、金融や卸売りなど商人の町があり、にぎやかな地域でした。また城内には、儒教と風水の思想にもとづいた都市が形成されました。現在も残る城隍廟や天封塔、月湖などに、伝統都市の趣を感じることができます。 

現在、城壁は広い幹線道路となり、かつての城内は寧波で最も活気にあふれた繁華街になっています。中でも天一広場は、レストランやショッピング、ビジネスなどが一体となった大型商業広場です。噴水や公園が整備され、週末には野外ステージでイベントが開催される広々とした空間で、子ども連れの家族や若い人々でいつもにぎわっています。まさに寧波人の日常が感じられるスポットです。私もコロナ以前は、週に一度は天一広場に出かけて買い物をし、友人と食材豊富な寧波料理に舌鼓を打っていました。 

寧波人の同僚が、三江口と聞くと、子どものころ三江口から船に乗り、奉化江沿いの県の家まで帰ったことを思い出す、と話してくれました。また、天一広場が現在のように整備されたのは2000年に入ってからのことで、それまでの三江口のシンボルは第二百貨店(現在もあります)だったと、当時を懐かしんでいました。多くの人やモノが行き交ってきた三江口は、現在の寧波の発展をどう見ているのでしょうか。 

三江口.jpg

【三江口(秦化江、余姚江、甬江の合流地点)】

寄稿−横井さん.jpg

浙江のお酒といえば、紹興酒を思い浮かべますが、中国を代表する蒸留酒である白酒も、浙江省で作られています。「同山焼」、「三白酒」、「紹興槽焼白酒」、「雁蕩山酒」、「金山陵酒」などの白酒があります。白酒は、紹興酒と違い、アルコール度数が高く、からみが強いのが特徴であり、ウイスキー、ブランデーと並ぶ世界三大蒸留酒の一つであり、種類も味も豊富です。

高粱.jpg


「同山焼」

images.jpg

浙江省諸曁市同山鎮は、白酒の産地として知られています。浙江省の白酒生産量は年間1万トンですが、そのうち同山焼企業で、年間4千トン以上の白酒が生産されています。ここで作られる「同山焼」は、清香型白酒の一つで、地元の特産品である高脚拐糯高粱を主要な醸造原料とし、醸造水は、地元の有名な水源が使われています。芳醇・濃厚で後味が良く、現地では「江南小茅台」と呼ばれています。伝統的な固体発酵の老五甑法を採用している同山焼醸造技術は、2500年以上の歴史があり、2009年には、浙江省の無形文化遺産に登録されました。同山焼は白酒ですが、醸造されたお酒は赤く透き通っているのが特徴です。お酒が赤いのは、蒸留が終わってから高粱の葉を入れていくからです。食感は甘く、五六十度で、同山酒は「酒中君子」とも呼ばれています。

「三百酒」

三百酒.jpg

嘉興市桐郷市烏鎮にも有名な白酒があります。700年以上もの歴史がある、特産の「三白酒」は、地元でしか飲めない銘酒として知られており、民間では「杜搭酒」とも呼ばれています。烏鎮の伝統的な三白酒醸造工房「高公生糟坊」は、清同治11年(1872年)に創始され、伝統技術を採用して醸造しています。「三白」とは白米、白麺、白水を指し、一定の割合、工程を経て作られます。完成品はアルコール度数55度と高く、純粋でコクがあり、甘い香りで口当たりがよく、辛くて癖になります。