清国政府は国民教育の手段として、万を超える清国留学生を日本へ派遣し、日本政府も国策として、留学生や中国の学校教育をバックアップしていました。しかし、清国政府の思惑とは逆に、啓蒙によって自国の惨状に目覚めた留学生の多くは、体制打倒の革命に走りました。清末の女性革命家・秋瑾(しゅうきん/1875年~1907年)も日本へ留学したその一人です。

秋瑾の原籍は、浙江省紹興府山陰県ですが、彼女の祖父・秋嘉禾が廈門府の長官として赴任し、これに一族が同行したため、福建省の廈門で生まれました。当時の廈門は、イギリスが強制的に開かせた港です。府長官である祖父は、絶えずイギリス人に侮辱され、その怒りが幼少の秋瑾にも伝わっていたと言われています。名家で育った秋瑾は、子どもの時は纏足をさせられていましたが、革命思想に目覚めると纏足を恥じるようになり、代わりに武芸に励み、刀剣(特に日本刀)を愛好していました。母親は、教養豊かな女性で、秋瑾は11歳で詩を詠むことを覚え、杜甫・辛稼軒の詩詞集を手放さなかったといいます。その傍ら、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えていました。

1895年、親が決めた湖南省の豪商の長男・王廷鈞と結婚し、北京に住み子供もできましたが、酒浸りの夫に愛想を尽かし、やがて日本留学を志すようになります。多くの知識青年が、国内での弾圧を避けるとともに、外国文化を吸収する窓口として、先進国である日本に留学し、横の連絡を取り合ってそれぞれの立場に応じた革命結社を結成していました。

人一倍知性と気骨に恵まれた秋瑾は、この祖国の危機を打開する運動に挺身する必要があると考えていました。日本の女子教育が、中国より進んでいることなどを聞いたりしたことが、彼女の留学熱に拍車をかけ、1904年家族を置いてついに日本へ留学し、松本亀次郎がいる弘文学院に編入しました。後に反清革命運動に身を投じるようになり、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」に参加したり、また女性だけの「共愛会」も創設したりしています。当時の秋瑾は、清服を嫌って、和服を着用し、好んで短刀を身につけていました。その後、実践女学校(現実践女子大学)に入学し、教育・工芸・看護学なども学び、麹町神楽坂の武術会にも通い、射撃を練習し、爆薬の製法まで学んでいました。しかし、中国革命運動に対する取締りが強化され、1905年日本政府が出した、「清国留学生取締規則」に憤激して留学を打ち切り、同年12月に帰国しました。1907年、徐錫麟が紹興で作った体育専門学校「大通師範学堂」の後任の責任者となり、革命運動に参加し、当局に目をつけられるようになり、蜂起計画を察知されて逮捕され、翌日、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑されました。31才の若さでした。その後、秋瑾の死は、新中国黎明期の革命運動の精神的支柱となりました。

【日本留学時代の秋瑾】

【松本亀次郎】