日清戦争後、清朝政府は日本へ派遣する留学生の受け入れを、日本政府に依頼しました。その後年々、日本留学のニーズが拡大し、1902年、清国の留学生のために予備教育機関「弘文学院」(翌年、宏文学院に改名)が、嘉納治五郎によって設置されました。松本亀次郎は、ここで日本語指導にあたり、魯迅はその教え子の一人です。

魯迅

魯迅(本名:周樹人)は、1881年浙江省紹興に生まれました。代々学者の家筋で、祖父は翰林学士(かんりんがくし)で北京に住み、父親も相当の学問を修めた人でしたが、その後、祖父の投獄、父の病死と続き、家は貧困状態となります。魯迅は、17歳の年に南京の江南水師学堂に給費生として入り、翌年江南陸師学堂付属の鉱路学堂に移って1902年に卒業します。当時の清朝政府は、日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めており、魯迅は20歳の若さで、官費留学生として日本へ派遣されました。

来日後、魯迅は先ず、東京の弘文学院予科に入学し、この学校で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けました。日本留学の1年目、魯迅は日本語や普通課程の勉強に全力を尽くしていたといいます。当時の同級生は、「当時、魯迅の弘文学院での勉強量はかなりすごいもので、普段毎日深夜まで一生懸命勉強し、驚かされる程の意志力だった」と魯迅の生活ぶりを語っています。

松本亀次郎

1903年に弘文学院に招かれた松本亀次郎は、最初に担当したクラスで、のちに「中国近代文学の父」と称される魯迅こと周樹人と出会い、ここで日本語の指導にあたりました。松本亀次郎の回想によると、魯迅の日本語翻訳は最も穏当かつ流暢だったため、「魯訳」と言って訳文の模範としていたほど優秀でした。来日後2年目から、魯迅の活動は学校での勉学の範囲を超え、様々な面にまで及び始めました。「欧米や日本の書籍を渉猟し、日本語を学びながら翻訳をしていた」と同級生は語っています。

その後、魯迅は仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入り、1909年の8月まで日本に滞在し、日本での留学は7年余りとなりました。仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野先生との師弟交流は、小説「藤野先生」で伺い知ることができます。

魯迅は日本滞在中に、中国人への精神啓蒙・思想啓蒙・科学啓蒙の活動に力を入れ始め、祖国の危機、中国人の精神を救うために自らの力を捧げる信念を固めていきました。文学の道に進むことを決心した魯迅は、仙台医学専門学校を退学しましたが、この留学は、さまざまな意味で魯迅の出発点となり、彼の思想と文学の骨格は、この時期に作り上げられました。