中国人留学生の日本語教育に生涯を捧げ、日中友好に貢献した、掛川市(旧大東町)出身の教育者、松本亀次郎(1866年〜1945年)がいます。松本亀次郎は、中国人留学生が増え始めた頃、1914年に「日華同人共立・東亜高等予備学校」を創立し、中国人来日留学生は5万人になり、そのうち2万人はここで学んでいます。その学生達の中には、魯迅、周恩来、郭沫若、秋瑾らがおり、新中国成立の黎明期から日中国交正常化にかけて、その時代を駆け抜けていきました。 

 19歳の周恩来は、官費留学生の待遇が受けられることを目指して、1917年10月に私費で日本留学し、東亜高等予備学校の本科に入学しています。周恩来はここで日本語を学びながら、大学入学試験の準備を始めました。この学校の跡地(現在:東京都千代田区立神保町愛全公園)には、「周恩来ここに学ぶ」の碑が建てられています。

【東亜高等予備学校跡地】 

周恩来が残した日記によると、松本亀次郎から個人授業も受け、自宅へ頻繁に招くほど親密な関係だったとされています。しかし、当時、日本語があまり上達せず、大学受験も不合格となり、失意のうちに1919年に帰国しています。日本での大学進学の目標は達成できませんでしたが、多感な青年期に国際政治や社会運動への理解を深めていく中で、次第に自身の政治信条を形成していきました。日本留学は人生の大きな岐路であり、日本社会に興味を持つ大変重要な時期だったといえます。 

新中国設立と共に総理となった周恩来は、作家の井上靖と会った際に「日本は中国を侵略し、われわれに塗炭の苦しみを与えた。しかし、日本には松本亀次郎のような人もいた。桜のころに日本を後にしたが、その頃また日本へ行ってみたい。松本先生のお墓参りもしたい」と語ったといいます。その願いはかなわず、1976年に他界しましたが、1979年に、周恩来夫人・鄧穎超が来日し、周恩来の遺言に従って、松本亀次郎の遺族に謝意が伝えられました。                                              

その後、時は流れ、2019年、天津市の周恩来鄧穎超記念館より、周恩来と松本亀次郎の「ろう人形」が掛川市に寄贈され、掛川市大東図書館に設置されました。また2021年、松本亀次郎の生家跡に、松本亀次郎記念日中友好国際交流の会により、中国からの留学生教育への多大な功績を記念する「鶴峯堂」が建立されました。松本亀次郎の功績は今も燦然と輝やいています。

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【鶴峯堂】

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【寄贈されたろう人形】