今日の寧波市は、古く唐代から「明州」と呼ばれ、東アジア海域の交流で、重要な役割を果たしてきました。「明州」の名は、明代に「海定則波寧」(海が静かであれば波は立たない)という意味の「寧波」と改められました。寧波は改革開放以後、徐々に近代化が進み、21世紀には中国を代表する港湾都市に生まれ変わりました。歴史ある寧波の建築物から、現在の寧波の姿や人々の生活を見ていこうと思います。 

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寧波のシンボルといえば、まず三江口をあげることができます。三江口は唐代からの港で、甬江支流の余姚江と奉化江が合流して甬江になる地点です。日本からの遣唐使船は三江口に上陸し、その後の栄西や道元、雪舟などもここにやってきました。三江口の西側に、城壁で囲まれた寧波府城がありました。城壁の東側面と川にはさまれた江厦には、埠頭だけでなく、金融や卸売りなど商人の町があり、にぎやかな地域でした。また城内には、儒教と風水の思想にもとづいた都市が形成されました。現在も残る城隍廟や天封塔、月湖などに、伝統都市の趣を感じることができます。 

現在、城壁は広い幹線道路となり、かつての城内は寧波で最も活気にあふれた繁華街になっています。中でも天一広場は、レストランやショッピング、ビジネスなどが一体となった大型商業広場です。噴水や公園が整備され、週末には野外ステージでイベントが開催される広々とした空間で、子ども連れの家族や若い人々でいつもにぎわっています。まさに寧波人の日常が感じられるスポットです。私もコロナ以前は、週に一度は天一広場に出かけて買い物をし、友人と食材豊富な寧波料理に舌鼓を打っていました。 

寧波人の同僚が、三江口と聞くと、子どものころ三江口から船に乗り、奉化江沿いの県の家まで帰ったことを思い出す、と話してくれました。また、天一広場が現在のように整備されたのは2000年に入ってからのことで、それまでの三江口のシンボルは第二百貨店(現在もあります)だったと、当時を懐かしんでいました。多くの人やモノが行き交ってきた三江口は、現在の寧波の発展をどう見ているのでしょうか。 

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【三江口(秦化江、余姚江、甬江の合流地点)】

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