中国では、歴史上、「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。王昭君は、紀元前1世紀ごろ、前漢の元帝時代の宮女です。外交上の犠牲として、異国に嫁いだ悲劇的な美女というキャラクター性は大変人気が高く、様々な物語が創作されています。

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王昭君は、今の湖北省興山県の庶民の家に生まれ、その美しさから、14歳の時に、民間から召し抱えられ、宮女として漢の後宮に入りました。当時の皇帝は、後宮の女性が描かれた肖像画を見て、寵愛の相手を選んでいたため、後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家の毛延寿に賄賂を贈り、自分を必要以上に美しく描いてもらっていました。しかし、王昭君は宮廷絵師に賄賂を渡さなかったため、故意に醜く描かれてしまいます。そのため、皇帝が後宮の女性の肖像画を見て召し出す時も選ばれませんでした。

モンゴル高原の遊牧民族「匈奴(きょうど)」の君主・呼韓邪単于(こかんやぜんう)から、漢の朝廷に政略結婚を持ち掛けられ、漢がこの異民族の懐柔策として後宮の女性を嫁がせることになった時、元帝はこの肖像画を見て、醜く描かれていた王昭君を選び、嫁がせることを約束します。ところが、実際に会ってみると、絶世の美女だったため、元帝は後悔するのですが、すでに呼韓邪と約束してしまったため、仕方なく妻として与えることになりました。

王昭君が祖国に別れを告げ匈奴へ旅立つ時、琵琶をかき鳴らし、離別を悲しむ曲を奏でると、雁がその哀切な音色を聞き、馬上の王昭君のあまりの美しさに目を奪われて、翼を動かすことも忘れ、地上に落ちてきたという逸話があります。その逸話から、王昭君は別名「落雁美人」と呼ばれています。

匈奴に嫁いだ王昭君は、その後、一男をもうけましたが、呼韓邪単于が早くに死亡したため、当時の匈奴の慣習に従って、義理の息子である復株累若単于の妻になり、二女をもうけたと言われています。しかし、漢では夫の息子と結婚することは、近親相姦に相当する不道徳で汚らわしいものだと思われていたため、王昭君にとっては屈辱的なことでした。俗説では、夫の息子との結婚を虚偽するために、服毒自殺したと言われています。そのため、王昭君の物語は漢王朝と異民族との間で翻弄された薄幸の美女として描かれることが多いようです。王昭君の薄幸ともいえる生涯は、後世に長く語り継がれ、日本にも伝来して『今昔物語集』に「漢前帝后王昭君行胡国語」として取り上げられています。