中国では、歴史上「楊貴妃」、「西施」、「王昭君」、「貂蝉」が四大美女といわれています。

楊貴妃(719〜756)は、唐代の玄宗皇帝の妃で、蜀の国(現在の四川省)の地方役人をしていた楊家に生まれ、もともとの名は玉環といいます。十代で親を亡くし、叔父に引き取られて育ちます。735年(開元23)、玄宗の息子の妃として迎えられましたが、玄宗は楊玉環の容姿に一目惚れし、夫の母武恵妃の死後、玄宗の求めで女冠となり太真の号を授かり、4年後正式に後宮に入り、翌年『貴妃』となりました。『貴妃』とは、中国の後宮の中での地位で、トップである皇后の次に位の高い地位です。

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日本で広く知られる、白居易の長編漢詩『長恨歌』は、悲劇の美女をうたったものです。長恨歌に登場する漢の皇帝は玄宗皇帝、皇帝から寵愛を受けた楊家の娘は、楊貴妃がモデルとなっています。

長恨歌にある『温泉水滑洗凝脂 雲鬢花顔 花貌 芙蓉如面柳如眉』(温泉の水がなめらかに凝脂を洗う/ふんわりとした髪の生え際/芙蓉の花のような顔立ち/柳のようなほっそりとした眉)と、楊貴妃の美しさをうたっています。また、登場する楊家の娘が漢の皇帝から賜ったという『華清池の温泉』は実在し、西安の観光スポットとなっています。

楊貴妃が庭を散歩すると、あたりの花々が彼女の美貌と芳香に気圧され、しぼんでしまったという伝承が「羞花美人」(花も恥じらう美女)といわれる由来となっています。

美しさだけでなく、才知があり琵琶や笛、磬 (けい)などの楽器や踊りにも長けていたことでも知られています。玄宗の寵愛を一身に受け、一族はみな高官に上り、又従兄弟の楊国忠は、宰相として権力をふるっていました。しかし、権勢をほしいままにしていたので恨みを受け、安禄山が乱を起こすと、玄宗と楊貴妃は共に蜀に逃れようとしましたが、途中で軍隊の反抗にあい、兵士の殺害要求により、玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じました。

楊貴妃は、その艶麗さ、玄宗との交情、栄枯の激しさなど、同時代からすでに文学作品の題材となることが多く、白居易の『長恨歌』、陳鴻の『長恨歌伝』をはじめとして、詩歌、戯曲、小説、随筆に数えきれないほどの作品が書かれています。