静岡県日中友好協議会
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改革開放40年『今』、『昔』 社会保障

ゆりかごから棺桶が激変、新たな社会不安
 社会主義計画経済の時代、中国では社会保障制度を構築するという考えはなく、現役労働者はその勤務する国営企業や集団所有制企業の内生する付属病院で病気の治療を受けることになって、国営企業と集団所有制企業は実質的にゆりかごから棺桶に入るまでその従業員の一生の面倒をみていました。農村部の医療は、医師は病院に所属するのではなく、中国政府の機関である人民公社に雇用されていたため、給料は政府から支払われ、その医師にかかるのは無料でした。

 それが、改革開放政策によって、企業は市場競争に晒されているため、その経営と直接関係のない社会保障の負担を企業本体から切り離され、社会保障基金を設け移管しました。併せて、養老(年金)、健康保険、失業、労災、出産などの社会保障基準が制定、運用されてきました。2013 年の三中全会で採決された決定では、皆保険の整備が明記されていますが、まだ未整備であり、現行の社会保障制度の問題点としては高齢化の進展に伴い社会保障に対するニーズが高まっているが、その保障能力は限られていること、都市と農村はそれぞれ別の社会保障制度になっており、不公平感が強いこと、都市部において企業セクターと政府行政機関はそれぞれ別の制度になっており、政府行政機関の職員と幹部は企業セクターの従業員よりはるかに優遇されていることがあり、このような二重社会保障制度のもとで不公平感が強まり、社会不安をもたらす一因になっています。

「看病難・看病貴」が社会問題化
 現在の中国における医療のなかで、2007 年ごろから社会問題となっているのが「看病難・看病貴」問題と呼ばれているものです。これは病院へ行くこと自体が難しく(看病難)、病院にたどり着けたとしても診療にかかる費用が高すぎて十分な医療が受けられない(看病貴)という問題です。中国の社会保障制度はまだすべての国民に十分に行き届いておらず、資金力のない人は病院にかかれない状況があります。医療分野においても市場原理が導入された結果、農村部ではこれまでほぼ無料で受けられた医療体制が崩壊、医師の偏在も起こり、「“看病難、看病貴”問題」は顕著となり、医療が行き届かなくなり、「農村合作医療保険制度」により、この農村部における医療崩壊立て直しが始まっています。


中日友好病院、保健医療サービスの近代化に寄与
 1979 年に開始された日本の対中国 ODAとして、医療の遅れなどの問題を抱えていた中国の保健医療サービスの近代化を進めるべく、1984年10月、北京の郊外に、最新の医療機器、医療設備を備えた中日友好病院が開院しました。また、病院建設と並行して1980年に、医療関係者を対象にした技術協力が始まり、日本全国の医療機関の協力を得て、医師、看護師などが現地に赴き、併せて中日友好病院の医療関係者が日本で研修を受け、カルテの書き方、検査手技、外来診療、手術ノウハウなど、医療技術が移転されました。



孔子の末裔 孔祥楷

 儒教の創始者である孔子(BC551〜479)は、春秋戦国時代の末期に活躍した著名な思想家であり、教育家として広く知られています。
 孔子は仁・義・礼・智・信を提唱し、弟子を連れて全国を周遊し、晩年には六経という6種の経書からなる儒学の基本経典を著しました。後に弟子たちによって孔子の語録や思想が「論語」に編纂されました。

孔子、衢州に縁

 山東省の曲阜市には有名な孔子廟があります。しかし、実は孔子の家系は途中から北派(山東省曲阜市)と南派(浙江省衢州市)に分かれ、衢州市にも孔子廟があります。
1128年、金が大挙して南方に進駐し、宋の皇帝・趙構が南に逃げた際に、孔子48代目の直系子孫である孔端友が皇帝の世話役としてお供した功績が認められ、南宋が成立した際に衢州に家を与えられ、定住し始めました。その後、元、金、宋が入り乱れ、正統な孔子の直系子孫に与えられる「衍聖公」の爵位が同時に3名の子孫に与えられた時期もありましたが、元の初代皇帝フビライが中国を統一した際に、孔子の家系を精査し、52代の直系孔洙を「衍聖公」として北京に招こうとしましたが、孔洙は衢州ですでに5代続いている南派として孔子の墓を守る必要があるとの理由で、この爵位を北派の子孫に譲ったというエピソードがあります。

孔子75代、直系子孫/孔祥楷

 現在、衢州の南孔子廟を守る75代目の直系子孫/孔祥楷は、子供時代は自身の身分をほとんど明かさず、青年期は西安建築工程学院を卒業し、河北省唐山にある金鉱場に26年勤め、一般の技術員から金鉱場のトップになり、二千名の職員を率いました。60歳の時に瀋陽の黄金学院の副院長として抜擢され、その後、50年余離れていた衢州に戻り、市長の助役を務めながら、儒教文化や孔子の思想を広めることにより、知名度の低かった衢州市の発展に力を注いでいます。

 衢州市の南孔子廟でとりおこなわれる孔子の生誕記念祭は中央電視台に何度も紹介され、2011年には国家無形文化財に指定されました。この80歳近い穏やかな老人は「老爺子(おじいさん)」の愛称で市民から親しまれています。

【儒学の創始者 孔子】          【孔子75代直系子孫 孔祥楷】



滋渓から日本へ 徐福

 秦の時代の中国に徐福という人がいました。徐福は、長い間中国でも伝説上の人物でしたが、1982年、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとされています。

徐福伝説
 秦の始皇帝の時代に、方士(方術を行なった人のこと)をしていた徐福は、秦の始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、莫大な資金を得て、紀元前219年に1回目の出航をしたものの、何も得ることなく帰国し、「鯨に阻まれてたどり着けませんでした」と始皇帝に報告しました。そこで、始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可し、紀元前210年、浙江省寧波市慈溪蓬山から、若い男女ら3,000人を伴って2回目の出航をしました。実際、徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが、史記の淮南衡山列伝によると「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」とされています。一説によると、辿り着いた「平原広沢」が日本であり、彼らにより農耕・製紙などの技術が伝えられたとも言われています。

 天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、「不老不死」の薬探しに躍起になっていました。万里の長城の建設などで多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、新たな地への脱出を考えていたのかもしれません。もしかすると、最初から、徐福は不老不死の薬を持ち帰る気持ちなどなかったのかもしれません。そのため、多くの若者や技術者など3,000人もの人々を集め、秦を出発したとされます。

日本各地に残る徐福伝説
 日本各地には徐福伝説が存在しています。実際はどこにたどり着き、どこに居住し、どこに行ったかはわかりません。もちろん、徐福という人物の存在を証明する物もありません。しかし、徐福の伝説地はとても多く、中国から船出した徐福が日本にたどり着き永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在しています。

 

  【徐福 像】     【浙江省慈溪蓬山から出発したとされる徐福】



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