谷崎潤一郎、中国の旅

耽美主義の小説家として著名な谷崎潤一郎(1886年〜1965年)は、幼少時代から漢学に触れ、中国に憧れを持っていました。谷崎は、1918(大正7)年と1926(大正15)年に中国を訪れ、中国の多くの文化人と交流があり、その経験が、日中文壇の逸話となっています。特に第1回の中国旅行の後には、「支那趣味」 と呼ばれる異国情緒あふれる作品を多数発表しています。

 

谷崎潤一郎は小学校に通い始めたばかりの6歳の時に、漢学に精通していた担任の先生の影響で文学に目覚めました。そして13歳の時に母親の勧めで、貫輪秋香塾で漢文の素読を受けるようになります。幼少時代から漢学の熏陶を受けた谷崎は、中国に思いを馳せるようになっていきました。

 

初めて中国を訪問したのは1918年10月、谷崎が32歳の時です。まず、遼寧省瀋陽市を経由して北京へ行き、そこから湖北省の漢口へ行った後、船で川に沿って西に向かい、廬山を観光してから南京に向かっています。その旅は12月上旬まで続き、その後、列車で蘇州、上海、杭州を旅行しています。中国を訪問した一番の理由は「演劇を見るため」だったと言っています。滞在中何度も劇場へ足を運んで演劇を鑑賞しています。蘇州や杭州、上海で流行している新劇も鑑賞し、京劇の名優である梅蘭芳や尚小雲、王鳳卿などの演技を評価しています。

帰国後、谷崎は「蘇州日記」、「中国旅行」、「秦淮の夜」など、中国の旅に関する作品を次々に発表しました。その中には「西湖の月」、「天鵞絨の夢 」など、杭州の西湖を題材としたものもあります。谷崎は11月に一週間ほど滞在した杭州をとても気に入り、紀行文の中で、杭州料理をとても褒めています。

 

夜更けには、西湖に浮かぶ三潭印月や湖心亭のほのかな陰影を堪能しており、“西湖”を『西湖の月』の中で以下のように表現しています。「此処に湛へられて居る三四尺の深さの水は、霊泉の如く清冽なばかりでなく、一種異様な、例へばとろゝのやうな重みのある滑らかさと飴のやうな粘りとを持つて居るからである。此の水の数滴を掌に掬んで暫く空中に曝して置いたなら、冷やゝかな月の光を受け留めて水晶の如く凝り固まつてしまふだらう」と表現しています。また、谷崎が見た雷峰塔は現在の倒壊後再建される前の姿です。谷崎は当時の雷峰塔を見て(現在の雷峰塔は後に倒壊後の再建)、「今から千年近くも前の遠い五代の世に建てられたと云う塔は、幾何学的の直線がぼろぼろに壊れて玉蜀黍(とうもろこし)の頭のようになつて居ながら、それでも煉瓦の色だけは未だ悉くは褪せてしまはずに、斜陽を浴びて一層あかあかと反射している・・・」と表現しています。

2度目の中国は、1926年1月に上海を訪問し、1ヶ月滞在しました。この時は、内山書店の経営者の紹介もあり、谷崎は郭沫若などを始めとする上海の新文化、新文学界の文化人と会って交流しています。帰国後、旅行で見聞きしたことなどを記録した「上海見聞録」や「上海交遊記」を発表し、今でも日中の作家の友好交流に関する貴重な資料となっています。

P8-旧塔.jpeg旧雷峰塔